報仏寺の報恩講で想われたこと

茨城県水戸市河和田にある報仏寺の報恩講へ出講した。十二月の晴天が続く一日、澄んだ空気の中に、報仏寺は佇んでいた。
 ご住職から、三年連続で呼んでいただき、今回が最終回だった。報仏寺は、『歎異抄』を書いたとされる唯円房を開基とする寺である。今回は、そのことの重みを今更ながら重く感じた。もし唯円が『歎異抄』を記さなかったなら、〈真・宗〉はどうなっていただろうかと思ったからだ。
 もちろん〈真・宗〉は、親鸞が開基と言ってよい。その親鸞も、主著である『教行信証』を著さなかったならば、現代まで〈真・宗〉が伝わることもなかった。学者によっては、『教行信証』は親鸞が筆を執って書かれたものだから、「第一次資料」としての価値があるが、『歎異抄』は弟子がまとめたものだから、「二次資料」であり価値が下がると見るひともある。それは自著の方が作者の執筆意図が明確に現れていると見るからだ。確かに、作者の意図が、より的確に現れているに違いない。作者が筆を執って書いているのだから。しかし、それは作者が筆を執り紙に向かっているときだけに現れる、「観念としての〈真・宗〉」である。言えば、それは、「一面的〈真・宗〉」である。
 作者が「生活者」であるかぎり、筆を執っていない時間が厖大にあるはずだ。そのときの作者の発言や行動は、紙の上には表れない。それを著すことができるのは、弟子など近親の者たちである。これは作者を周りから多面的に観察できるのだから、「多面的〈真・宗〉」と言える。だから、作者が自著で表し得なかったことが、そこには当然、現れる。
『歎異抄』には、自著には見られない表現がたくさんある。それは作者・唯円が親鸞から聞き取った言葉だからだ。とても親鸞が自著では表し得なかった〈真・宗〉の真髄がいくつも露見されている。
 ここに作者の意図が、たとえ自著に表されているとは言え、それを超えた意味をもってくるのである。それが〈真・宗〉という思想体系である。ここまで来ると、自著が〈真・宗〉を的確に表現しているか、あるいは「聞書」が的確に表現しているかどうかという価値基準しかなくなる。つまり、そこでは「自著」であるか「聞書」であるかという価値判断は二次的な関心になる。
 さらに私たちが身近に感じている親鸞はどちらかと言えば、やはり「聞書」である『歎異抄』なのだ。自著である『教行信証』も、聞書である『歎異抄』もどちらも大事であることはもちろんだが、「身近な書」と言えば、やはり『歎異抄』ではなかろうか。
 この「聞書」という伝承形態は、人類における知の表現形態の基本形である。それは『仏典』(仏教)も、『聖書』(西洋一神教)も、『論語』(中国思想)も、『ソクラテスの弁明』(哲学)も、すべては弟子たちの受け止めたものが言葉となったものである。それらの思想を自らの筆で著したひとは一人もいないのだ。これを見ただけでも、『歎異抄』という表現形式が、世界的な知の在り方と軌を一にしていることが分かる。
 私という〈一人一世界〉に属している「真宗大谷派」を構成する人々も、自分自身の内面を見れば、『歎異抄』によって〈真・宗〉への眼が開かれ、そこから親鸞の主著『教行信証』へと辿っていったのではなかろうか。
 そんな思いがあったからか、組織論から言えば、報仏寺は「真宗大谷派」に属し、「東本願寺」を本山とする末寺と考えられるが、〈真・宗〉から見れば、「東本願寺」こそ「報仏寺」の末寺という意味付けになるとお話した。
 もし『歎異抄』が、この世に生まれなければ、親鸞はここまで有名になることもなかったのではなかろうか。
 「身近な書」という意味で言えば、やはり『歎異抄』第九条が自分にとっては一番身近な条である。第九条は、冒頭から唯円の問いで始まる。「念仏を称えていても嬉しく感じられないし、極楽浄土へ急いで往きたいと思えない、これをどう考えたらいいのでしょうか」と親鸞に向かって吐露した。この問いが師・親鸞に向かって吐露される前には、大いなる躊躇いのときがあったと、曽我量深先生は述べている。それには、私も同感だ。これは信仰の道を、それこそ汗水垂らしながら、茨を払いながら来たものにしか感じ取れない躊躇いだからだ。
 こんなことを師に述べたら、師からどれほど叱責されるか分からないという恐れと、自己自身の内面では、いままで苦労して獲得してきた「信心」の功績が無価値になるのではないかという二つの怖れがあるのだ。それもこれも、唯円のこころの中だけで感じ取られている出来事であるから、周りのひとには分からない。
 しかし、その躊躇いを押し切って、問いが頭をもたげて来たのだ。このような問いが吐露される場面を考えれば、親鸞と唯円の周りにはたくさんのひとが居たとは思えない。一対一か、あるいはひとが居たとしても僅かのひとだったろう。遠慮無く言えば、一対一だったと思う。
 もし、周りにひとがいたならば、これほどの問いを吐露することはできないからだ。もし周りに同輩や後輩がいたならば、自分がいままで「信心」を得たという立場から取ってきた行為、振る舞いのすべてが「間違い」だったと露見することになるからだ。だから、恐る恐る吐露した問いに違いない。
 何せ、唯円自身は「信心を得たひと」と自認していたのだから。同輩や後輩に向かって、「君たちにはまだ分からんだろうが、如来回向の信心とは、かくかくしかじかのことなのだ」と解説までしてきたのかも知れない。その立場が一気に崩れるほどの問いが、この問いだ。だから、恐る恐るなのだ。
 しかし、それに対して親鸞の答えは、まったく唯円の予想を超えたところから返ってきた。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」だ。こういう返答を聞いたとき唯円は、どう思っただろうか。まずは驚きが起こったはずだ。自分の予想を遙かに超えた返答だからだ。唯円の内面に起こった思いを言葉にすれば、「まさかお師匠の親鸞聖人も、私と同じ疑問をもたれていたとは」という驚きと安堵、さらに、「そうおっしゃることの理由は何だろうか」ではなかろうか。
 ただ親鸞の返答は、唯円の思いを超えて、一気呵成に続けられた。「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによころぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」
 「本来であれば、念仏を称えることからうまれる喜びは、驚天動地のものであるべきだ。しかし、喜びの感情を押さえて起こさせないものがある。それが煩悩だ。しかし、阿弥陀さんは、この煩悩の者をこそ哀れに思われ、煩悩の者を救おうと本願を発されたのだから、私たちのようなものこそが救われるのだ。そのように思えれば、安心感も湧き、不安感もなくなるではないか」という展開だ。
 親鸞が言う、唯円と同質の「不審」とは、念仏を称えても嬉しいという喜びが感じられないのは、どうしてなのだろうかという疑問だと考えられる。なぜそういう疑問が起こるのかと言えば、それは、『仏説無量寿経』下巻の冒頭に、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。(諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念)」が、前提としてあるからだ。これは教学的に言えば、「第18願成就文」と呼ばれている。つまり、「信心」が成就した状態を表している。その「名号を聞きて」とは、南無阿弥陀仏が私を助けるための救いの法則であり、そのことに気づいて感動したときには、おのずとナンマンダブツと口をついて「念仏」が出るのことである。その状態を「信心歓喜」と言う。これが信仰の「本来性」だと親鸞も唯円も知っている。しかし、現実には、そのようにならないことが、いま目の前で起こっている。それはなぜなのだろうと。
 ということは、まず初めに、その「信心歓喜」の状態を経験したということがあって生まれる問いであろう。信仰には必ず、ビギナーズラックがある。その教えに出会うことで、未来に生きるための道が開け、明るくなるという「歓喜」である。この感動が一生涯続けば問題ないのだが、これが薄れてくる。薄れることで、不安が起こる。
 その不安が起こったときにどうするか。親鸞は、自己の求道に対する態度を問題にしなかった。自己の努力が不足しているとか、考え方が間違っているとか、能力が劣っているとは考えていない。ひたすらその問題の原因を、「煩悩」へ持っていった。
 親鸞の考える「煩悩」は、自己と完全に切り離されているということだ。つまり、自己にとって、「煩悩」とは、つねに「自己」の外部からやってくるもの、「自己」を超えたところからやってくるものという認識だ。だから、不安が起ころうが、またその反対にある喜びが起ころうとも、悲しみが起ころうとも、どのような感情が起ころうとも、それらはすべて、「煩悩」が起こすことであって、「自己」はどこにも関与していないというのだ。唯円が、念仏を称えても嬉しく感じられないのも、「煩悩」がはたらいているだけであって、それは「自己」のまったく関与しない出来事だと受け止められている。
 しかし、唯円は、そこが違っていた。彼は念仏を称えても喜びが感じられないのは、「自己」に問題があると考えている。もっと真剣に命懸けで聴聞していないから喜びが感じられないのではないかと、退一歩している。退一歩して不安になっているのは、自分で自分を何とかできるものだという思い上がりだ。そこが親鸞とは違っている。だから、親鸞に「唯円房おなじこころにてありけり」と言われても、「おなじこころ」にはなれなかった。親鸞は、喜びが感じられないのは「煩悩」の仕業であり、その「煩悩」で動いている者をこそ阿弥陀さんは助けようとされるのだから、「たのもしくおぼゆるなり。」と安心感で受け止めている。しかし、唯円はそれが不安だったのだ。
 親鸞は、「煩悩」を自分でコントロールできるものではないと自覚している。もっと言えば、その「煩悩」は阿弥陀さんがコントロールしているものであり、指一本、「自己」がコントロールできないものだと知っている。
 このように「自己」と「煩悩」の関係がキチッと棲み分けられることを〈真・宗〉と言うのである。そして唯円は、そのことをちゃんと分かったということで、この第九条が記されたのである。
 我々にとって、最大の問題は「煩悩」である。その後の方に、「また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。」と述べている。「所労」とは体調不良や病気のことである。ちょっと病気になったり、体調を崩したりすると、このまま死ぬのではないかと、不安になるのも、煩悩が引き起こしていることだと言う。
 これも我々の偽らざるこころの在り方を問題にしている。自分の生活を振り返ればすぐに分かる。ちょっと病気でもすれば、このまま死へと転がっていくのではないかと不安になることがある。そんなことは少しも思わないというひとがないということだ。〈真・宗〉は、こころのありのままの「事実」を誤魔化さない。
 この「死なんずるやらん」という不安は、そもそも人間が「死」を知っているという驕りから引き起こされる。人間が知っている「死」は、二人称か三人称の死であって、決して一人称の死ではない。つまり、人間は「死」を知ってはいても、決して体験することができないのだ。だから、〈ほんとう〉には「死」を知らないのだ。阿弥陀さんがご存じのように、人間は「死」を知ることができない。
 自己が自己自身を内省して、自分は「死」を体験できないと認識することと、阿弥陀さん経由で「死」を知らないと知ることは違っているように思う。それには、「いそぎまいりたきこころのなきものを、ことにあわれみたまうなり。」が分かれ目のように思う。「死」を知っていて、やがて死んでから浄土へ往きたいというこころの起こらないものをこそ、特別に阿弥陀さんが愛して下さると言っているからだ。一人称の死は体験できないと知ってはいても、それでも「死なんずるやらん」という不安が起きてくる。これは我々の生命活動が終わるときまで起こってくる不安だろう。しかし、その不安が起こってくる度に、「ことにあわれみたまうなり。」という悲愛が注がれてくるのだ。
 これが阿弥陀さん経由で「死」を知らないということの構造だと思う。
あれこれ述べてきたが、報仏寺へ参詣したことで、私の中に引き起こされてきたことであった。