もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった

栃木組の推進員のつどいへ行ってきた。
テーマは「もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった」だ。このテーマは、実に〈真・宗〉をよく物語っている。2500年前にお釈迦さんが覚りを開いたということも、親鸞が750年前に信心を得たとか、そういうことが、〈いま〉のこととして復活してくるテーマだ。
私たちは、仏教も真宗も、もうすでに「ある」ものだと思い込んでいる。それは「ある」という観念に過ぎない。そんなものは教科書に書かれた歴史だ。それも無下にはできないが、自分が生きることとは直接結びつかない。
つまり自分が生きるということに関われば、すでに「ある」と思い込んでいる知識は役に立たない。果たして、生身の自分が、いまここに生きていて、彼らの教えとどう関わり、ビビッドに火花を散らしているかが問題なのだ。
もうすでに「ある」というのが幻想だと覚めてしまえば、仏教を体現し、真宗が開発される場所は、〈いま・ここ・わたし〉以外にはない。
仏教を生かすも殺すも〈わたし〉のいただきかた一つに関わってくる。そうなると、うかうかとしていられない。仏教は、まだ始まっていなかったのだ。〈わたし〉からしか出発しない。そういう生々しいものが仏教なのだ。