「生きる」と「往きる」
絶望道は「生きる」、往生道は「往きる」と書こう。「往生」の「往」は、「往く」であって、これを「往きる」と使うのは文法的には誤りである。それをあえて「往きる」と用いることによって、「生きる」と差異化してみた。
絶望道の「生きる」は、突き詰めた目的地である「死」へ行くという方向性を示すが、往生道の「往きる」は、何処かへ行くという方向性を表さない。だから、いのちが終わってから、「浄土へ往く」という方向性を表さない。
表層の、つまり、通時的時間観念をもとにした表現であれば、「浄土へ往く」と使ってもよいのだが、深層の共時的時間観念で表せば、それは間違いである。だから、「往きる」は、何処かへ往くわけではない。「死んで」地獄へ往くわけでも、「浄土」へ往くわけでもない。
「往きる」は、「いま・ここ・私」を阿弥陀さんから賜ることで成り立つ、「いま(時間)・ここ(空間)・私(主体)」のことであると、一応、こう言い切ってみたい。まだ結論の着地点は見えないのだが、私の直観がそう言わせるのだ。
どうしても、私は通時的時間観念のみを「生きて」いるので、生の方向性が欲しくなる。何のために生きているのかという目的論的発想を好む。この発想を満足させるために、「浄土へ往生する」という言葉が編み出された。これは我々が目的論的発想に合ったものしか好まないので、苦肉の策として編み出された表現だろう。
だから〈真実〉のフォルムに適った表現にすれば、私はこの世が終わって、生理的生命活動が停止したとして、いかなる他界へも往くということはない、ということになる。
もっと言えば、純粋な「いま・ここ・私」を、私が受け止める限りの「いま・ここ・私」には、決して成り立たないということを言っているのだ。
人間にとっての「いま」とは、「いま」と受け取った限り、「過去」になる。
また人間にとっての「ここ」は、「ここ」と受け取った限り、「どこか」になり、「私」は「私」と受け取った限り、「誰か」になってしまう。
私は、以前、「ここが浄土だ」という表現をしたことがある。この表現を目にしたとき、間髪を入れずに返ってきた反応が、「ここが浄土であるはずがないだろう」だ。そのような反応の出所は、「浄土」という言葉の意味を、欲界で受け取った限りでの反応だ。つまり、「浄土」とは「安楽であり、苦しみのない極楽のような場所」という固定観念が、そういう反応を引き起こすのだ。現実の社会を見てみろ、そんな呑気なことが言えるのかという反発心から生まれた反応だ。
しかし、親鸞の「浄土(真土)」の定義は、「無量光明土」であり、「往生」とは、「皆、自然虚無の身、無極の体を受ける」という意味だと『教行信証』(真仏土巻)で述べている。
「無量光明土」とは、「人間には量ることのでき無いひかりの空間」という意味だ。つまり、「浄土」は、まず第一に、「人間には量ることができ無い」ということが大前提なのだ。しかし、それをすっ飛ばして、この漢字から受ける印象から、「安楽な場所」と固定観念を作り上げ、この固定観念に反応して、反発しているだけなのだ。
私が「ここが浄土だ」と述べたのは、まず「〈真実〉の浄土」には、「浄土」という言葉が成り立たないということだ。そもそも、「人間には量ることができ無い」のだから、そこでは、人間の言葉が言葉として成り立たない。だから、「〈真実〉の浄土」には、「浄土」という言葉が必要ないのだ。
それでは、「浄土」という言葉が、人間にとって意味を持つ場所は、何処なのかと言えば、それは「いま・ここ」以外にはない。だから、「ここが浄土」なのだ。人間に於いてのみ必要とされる言葉が、「浄土」なのだ。「浄土」の「浄」は動詞であり、この場所を「浄」とする。つまり、「いま・ここ」を「〈真実〉を感得するための意味空間に変える」という動詞なのだ。つねに変え続けようとはたらく場所こそが、「浄土」である。
さて、そのことを確認しておいて、それでは、人間にとって、「いま・ここ」とは、どういう意味を持っているのか。「いま」は、いつでも、「過去」としてのみ人間に成り立つことは以前から確認しているところである。それでは、「ここ」はどうなのか。
そう問うてみると、確かに「いま」が過去であると同じ形で、「過去としてのここ」とならないか。「ここ」と指差して時計の秒針を見れば、「ここ」はつねに、「過去の秒針」しか見つけることができない。「いま」が瞬間にしか成り立たないように、「ここ」も瞬間にしか成り立たないのではないか。
人間が受け取った限りでの、「いま・ここ」は瞬間にしか成り立たないものであって、いわば、どこを切り取ってみても「恣意的な現実」と化してしまう。この「恣意的な現実」を親鸞は、「方便化身土」という言葉で受け止めたのではないか。「方便化身土」とは、「方便」が「恣意的」という意味であり、「化身土」とは、「私(自身)が教化される空間」という意味だ。「恣意的」というのは、「欲しいまま」とか「どうでもよい」という否定的な意味ではなく、「人間においてのみ成り立つ」という意味で使っている。人間以外の生物にとっては、どう受け取られるか分からないけれども、人類という種に於いてのみ意味を持ちうるという意味である。
〈真・宗〉は、「いま・ここ」を「生きている」と思っている人間に対して、それは「恣意的な現実」であり、〈真実〉ではないと教える装置のようだ。それで妙好人・讃岐の庄松さんは、「お前が死んだら墓を建ててあげよう」と親切に申し出てくれた同行に対して、「己れは石の下には居らんぞ」と応えたのだろう。(『庄松ありのままの記』永田文昌堂)
庄松さんは知っているのだ、自分は「絶望道」ではなく、「往生道」を往くものだと。
「絶望道」は「死」を知っているという人間の固定観念で出来上がっている。だから同行さんは、庄松さんを喜ばせようとして、「死んだら、立派な墓を建ててあげよう」と申し出たのだろう。しかし、庄松さんは、「死」は人間の固定観念で生み出された幻想だと知っている。だから、「死んでも墓の下にいるような存在ではない」と反応したのだろう。親鸞の言葉を援用すれば、「皆、自然虚無の身、無極の体を受ける」のだから、限定的な身体が溶解され、無限なる意味空間そのものと一つになるのだろう。まあ、そんなものをいくら考えても人間の妄想に過ぎないのだが。
最後に、往生道に於ける「いま・ここ・私」の「私」はどう理解したらよいだろうか。絶望道の意味空間に於ける「私」とは、「私」の知っている「私」のことである。身体や、脳という臓器を兼ね備えている「私」のことである。しかし、それがなぜ「私」であると思うのかは分からない。「私」とは私の知っている限りの「私」であって、その他ではないと思っている。
しかし、往生道に於ける「私」とは、「私」を超えた存在であり、自分では知り得ない存在ではないか。つねに知っているのは、「私」の見た「私」であって、「私」の知らない「私」は認識できない。あるいはこうも言えるだろうか、自意識というものは、「見る自己」と「見られる自己」に分裂している。だから、「見られる自己」はいくらでも認識できるのだが、その当の「見ている自己」は、つねに不可知である。「見られる自己」は知っているのだが、「見る自己」は、スルッと逃げてしまい、アッという間に「見られる自己」に変質してしまう。
「見る自己」そのものは、ブラックホールのようで、自分には見ることができない。それを譬喩的に、「ドーナツの穴」と言ったこともある。「ドーナツ」の輪っかの部分は確かに見えるのだから。しかし、穴は見えない。見えないにもかかわらず、確かに穴はあるのだ。さらに穴は透明だから、あらゆるものが通過する。親鸞がカウントしている、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)も、親鸞が認識した煩悩の片鱗であって、それが丸ごとの自分ではない。もしそれで自分が分かったと思ったら、そのときは阿弥陀さんと縁切りだと思う。
人間が知り得る程度の自分であれば、阿弥陀さんも苦労しないはずだ。自分の深さは阿弥陀さんの深さと比例する。だから、人間の知っている自分など、阿弥陀さんに預けていくしかない。そして空っぽになっていればよいのだ。
「往生道」とは、人間が知っている「時間・空間・主体」を、「既知」から「不可知」へといただき直すことだろう。それが〈存在の零度〉だと思っている。