「不誦和讃」について

お朝事の繰り読みでは、飛ばしてしまって読まない和讃がある。それは、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときたまう」(「正像末和讃」)である。現代語訳は「念仏の教えを謗るものは無間地獄に堕ちて、八万劫にわたり激しい苦悩を絶え間なく受け続けると説かれている。」(『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)本願寺出版社)である。
 いつも、なぜこの和讃を詠まないことにしたのかと疑問に思っていた。そこで声明作法に詳しい方に尋ねてみた。すると、まずこれを「不誦和讃」というらしいことが分かった。明確な理由や典拠は見あたらないけれども、「コノ讃ヲバヒクベカラズ」という記載が、「存如本の三帖和讃」にあるので、「不誦」の起源は存如上人までは遡れるらしいというお答えだった。
 存如上人とは、蓮如の父親だから、当然、その子どもである蓮如も、この和讃は詠まれなかったのだろう。時代は下るが、江戸後期、文政11年(1828)に大谷派の如説院慧劍という学僧が講述した『正像末和讃菅窺録』(『真宗大系』第20巻)には、次のようにある。
「コノ讃諷誦ヲ除キタマフハ古来ノ故実ナリ。ソノ所以ハ知ルベカラズト雖モアマリキビシキ誡ナルヲ以テノ故ニ世間ノ人ノ却テ誹謗スルノ失ヲ生ゼンコトヲ憚リタマフナルベシ。」とある。やはり、慧劍さんも、その理由は古来から言い伝えられていることであり、詳しいことは分からないと言っている。やはり、存如さんが始めたことなのかも知れない。
 それで慧劍さんは、その理由を自分自身で考え、この和讃は、余りにも厳しい誡めだから、世間のひとは却って誹謗するのではないかと危ぶんで、あえて詠まないようにしたと推測している。
 この「アマリキビシキ誡ナルヲ以テ」とは、「念仏誹謗の有情」は阿鼻地獄に堕ちて、永遠とも思える時間、苦しみを受けるのだから、念仏を誹謗するなどということは、決してしてはならないという「キビシキ誡メ」と解釈している。誰が誰に対して「誡メ」ていると考えているのか。まあこの和讃の作者である。親鸞聖人が門弟たちに対して誡めていると考えたのか。それも親鸞聖人が生きておられた当時の門弟に対しての誡めか。それとも、後代に渡って、これを読むであろうと予想される人々への誡めか。そこには慧劍さん自身が含まれていたのか。そんな疑問が湧いてくるが、ご本人がいない以上、答えは分からない。
 ここからは私の邪推だが、親鸞聖人が想定していた人々の中には、「真宗」以外の宗派の人々もあったのだろう。あるいは、「正像末和讃」が書かれた動機の一つに、善鸞事件が切っ掛けだとも言われているので、善鸞も、その想定の中にあったのかも知れない。
 慧劍さんは、その辺りの詮索はしていない。ただ、この和讃に似た内容の和讃があり、そこでは具体的に考えている。それが、この和讃だ。
「菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあたをなす 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きわもなし」。現代語訳は「さとりを得られないであろう人は、みな念仏をもっぱら修める教えをさまたげる。速やかにさとりに至る教えを謗り滅ぼそうとするので、迷いの大海はどこまでも果てしなくひろがっている。」(同上)である。
 不思議なことに、この和讃は「不誦和讃」にはなっていない。表現のどぎつさが、前の和讃よりも緩やかだからだろうか。しかし、前の「念仏誹謗の有情」の具体的なあり方を、「専修念仏にあたをなす」者と定義していると見ることもできるのではないか。この和讃にある「専修念仏にあたをなす」を慧劍さんは、解釈する段で、「あたをなす」人々について、次のように述べている。少し長いが、引用してみる。
「現ニ元祖ノ浄土宗ヲ別立シ給ヘルニ就テ南都北嶺ノ僧徒ノ瞋ヲ成シ怨ヲ結ベルハ全ク専修念仏ニ怨ヲナセルナリ。若シコレ余行ヲモ雑修スルノ念仏ナラバ天台宗ハ智者大師モ念仏シ給ヒ。法相宗ニハ慈恩大師モ念仏シテ西方ノ往生ヲ勧メ給フ。何ゾ怨ヲナスベケンヤ。彼ノ怨ヲナセルハ偏ニ専修念仏ニアリ。
 元祖聖人始メテコノ日域ニ於テ浄土宗ヲ別立シ給フ 元祖已前ニ往生浄土ノ念仏宗無キニ非ラズ。恵心空也永観等盡ク念仏宗ヲ弘通シ給フト雖モミナコレ天台真言等ノ寓宗ニシテ諸宗ノ中ニ兼行シタル念仏ナリ。然ルヲ元祖上人ハ天台真言等ノ宗旨ヲ捨テテ専修念仏ノ宗旨ヲ別立シ給フガ故ニ山門南都ノ学徒大ニ瞋ヲ成シ怨ヲ結ベルナリ。黒谷伝七(初右已下)元祖流罪ノ始中終ヲ記セル中ニミナ専修念仏ヲ嫌ヒ悪ムコト屡々顕レタリ。拾遺古徳伝録(十四左已下)ニモ他宗ノ碩徳一向専修ノ義ヲ難ゼルコトヲ記セリ。然レバタトヒ念仏ストモ一向専修ニ非ズンバ聖道門諸宗ノ人師モ亦怨ヲナサルベシト雖モ。専修念仏ノ行者ヲ見テハ怨ヲナストイウ義ヲ顕シテ専修念仏ニアタヲナストノタマフ」(「正像末和讃菅窺録」『真宗大系』第20巻所収)
 この文章に沿って、文意を見てみようと思う。
まず「現ニ」とは、「歴史的に、現に承元の法難があったように」という意味だろう。続いて、「元祖」とは、法然上人のことで、上人が浄土宗を特別に立てられたことで、「南都北嶺ノ僧徒」、つまり「南都」は奈良の興福寺、そして「北嶺」とは京都の比叡山延暦寺の僧侶たちが、「瞋ヲ成シ怨ヲ結」んだと言う。それは、「専修念仏」に対してである。
 このフレーズは、親鸞聖人が、『教行信証』の末尾において「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」と書かれているので、この表現になぞらえものだろう。
念仏も兼ねて行ずるという教えのルールを溯れば、天台宗の智顗大師も、法相宗の慈恩大師も念仏を称えて西方浄土への往生を願ったのだから、怨みを買うことはなかった。ただ、「専修念仏」という思想が問題だったのだと分析している。
 続けて、法然上人が日本に於いて初めて「浄土宗」を独立されたことを、「元祖已前ニ往生浄土ノ念仏宗無キニ非ラズ」と言っている。それから、法然上人が念仏宗を立てられる以前に、恵心(源信)、永観などの念仏宗があったが、これらはみな「天台真言等ノ寓宗」であり、「諸宗ノ中ニ兼行シタル念仏」だと言っている。「寓宗」とは、その教えそのものが独立しておらず、他宗に付随している宗旨という意味だ。つまり、「天台宗」や「真言宗」に付随したした宗旨で、「念仏宗」として独立してはいない。また、「兼行」とは、さまざまな行をするけれども、念仏も取り入れてするという意味だ。
 しかし、法然上人は、天台宗や真言宗などの教えを捨てて、「専修念仏」の宗旨を独立させたので、これが京都・比叡山延暦寺や奈良・興福寺の僧侶たちの怒りを買うことになったのだ。
 法然上人の伝記(『黒谷上人伝』)にも、土佐(正確には讃岐)での流罪生活を通して専修念仏に対して、しばしば怨恨を向けられたと書かれている。また他の伝記(『拾遺古徳伝録』)にも、他宗の碩学が専修念仏の教義を非難している記録もある。だから、たとえ念仏をしていても、一向にただ念仏だけを称えなければ、他宗派の人々に非難されることはなかったのである。
 ここまで見てきたが、慧劍さんは、「専修念仏にあたをなす」という文言が生まれてきた状況分析をしているだけで、「専修念仏」のどのような思想が聖道門諸宗の人々を不安にさせたのかという思想分析はしていない。何だか他人事というか、自分の立場がどこにあるのか分からないような書きぶりで、少しイライラさせられた。
 以上、二つの和讃を通して見えてきたことは、やはり、親鸞が「承元の法難」で旧仏教から受けた理不尽な弾圧に対し、怒りを感じていたということではないか。その怒りが、この二つの和讃からは感じ取れる。
 まあ、「和讃」講義の定道として言えば、この二つの和讃にある文言の出典を探るという手法が採られる。つまり、親鸞聖人が、何を典拠にして、この和讃を作ったのかという研究方法だ。そこで「念仏誹謗の有情は」は、善導大師の『法事讃』からであり、「菩提をうまじきひとはみな」は、『観仏三昧経』と『十往生経』だと突きとめている。しかし、たとえ出典がそこにあったとして、その出典から言葉を選び出した親鸞の眼、つまり、引用の意図はどこにあったのだろうか。それは先にも引いた、『教行信証』(後序)の「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ」ではなかろうか。
 ここには、「専修念仏」という〈真実〉の教えが無惨にも弾圧されたことへの親鸞の怒りが表れている、と見ることができるのではないか。それは、理不尽にも自分が弾圧されたことへの怒り(私憤)以上に、師・法然を流罪にし、〈真実〉の教えを踏みにじったことに対する怒り、言えば「公憤」だったのではないか。「怒れる親鸞」が、そこにあった。
 ここまで来て、最初の問題に立ち帰ってみたい。なぜこの「念仏誹謗の有情」の和讃が「不誦和讃」とされたのか。それは「怒れる親鸞」を、自分の立場にすり替えて、他宗派を批判しようとする高慢心への危機感ではないか。
 そこで危機感を感じた人々は、「念仏誹謗の有情」とは誰のことだと想定したのか。それは「聖道門諸宗派」と見ていたのか、それとも誰なのか。
 「宗派」という「共同幻想」によって自我を強固に守ろうとする人々にとって、この和讃は都合が悪かったとも考えられる。旧仏教に弾圧されても生き延びてきた本願寺は、このような和讃を大声であげることへの危機感を感じていたのかも知れない。もし、それが旧仏教から批判されてしまえば、また本願寺は弾圧されると不安になったとも考えられる。蓮如の頃には、まだ比叡山に対して上納金を納める立場にいたのだから、その不安も分かる。比叡山から見れば、本願寺は、まだ自分たち(天台宗)の宗派の末寺という認識だろうから。この危機意識から、この和讃を「不誦」としたのかも知れない。
 「念仏誹謗の有情」の「有情」は明らかに、他者を想定した表現ではないか。そこに「自分自身」を入れ込んで考えることは難しい。やはり、「自分以外のひと」を想定した和讃だと思われる。
 しかし、だからと言って、後代の我々が、「真宗」こそが〈真実〉であり、「専修念仏」を弾圧した聖道諸宗は阿鼻地獄へ堕ちて、永遠とも思える間、苦しみを受けるのだと声高にシュプレヒコールを上げることとは、違っているだろう。それでは、あたかも日蓮の打ち上げた「四箇格言」を、後代の者が喧伝することと同じ問題を抱えてしまう。ちなみに、「四箇格言」とは、「日蓮が法華経最勝の立場から、法華経以外の諸経・諸宗を否定し、その謗法を指摘した『念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊』(念仏は無間地獄に堕ちる業因である、禅は天魔の行為である、真言は亡国の原因である、律は国の賊である)の四句をいう。」(以下略・『岩波仏教辞典』)である。
 真宗だけが〈真実〉の教えだと受け取ることと、だからといって、他宗派は間違っていると表現することは全然違う。これがまったく違っていると見えなければ〈真実〉に背くことになる。
 「真宗だけが〈真実〉の教えだ」と確認できる意味場は、自分と〈真・宗〉との関係においてである。つまり、自分にとっては、〈真・宗〉との出遇いを抜きにして、「いま・ここ・私」を受け取ることができなかったというモノローグである。
 しかし、だからといって、「他宗派の表現は間違っている」と言うことはできない。他宗派の表現で助かっているひともいるのだから、それを私がおこがましく間違っていると言ってはならない。他宗派の教理も、同じように〈真実〉を表現しようとしているのだから、それはそれとして尊重すべきである。ただ、その教理を私は選ばないというだけの話だ。そうであるのに、「真宗だけが〈真実〉の教えだ」という主張を持ち上げるために、あえて他宗派や他宗教を間違っていると批判したくなるのは、傲慢の極みである。そのように批判したくなるのは、かえって「真宗だけが〈真実〉の教えだ」ということに自信が持てないことの証明になってしまう。
 それを『歎異抄』第十二条では、「専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり、謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや」と批判している。
 問題は、「真宗だけが〈真実〉の教えだ」と見出せるかどうかだ。宗教は必ず「唯一性」を必然する。必ず、「このこと一つ」という統一点を持たなければ信仰にはならない。それは、私がこの世に存在することの「唯一無二性」に起因しているのだろう。
 それはともかく、「このこと一つ」という統一点が見つかることによって、この世界がその統一点を元にして、秩序づけられる。別の言葉で言えば、「方便化」されてしまう。さらに、その「方便化」されたものが、逆に、〈真実〉を表現するための素材に転じていく。まあ、親鸞が使った、「顕彰隠密」という統一法が、それである。
 譬喩的に言えば、「いま・ここ・私」を受け取るための、たった一つの「窓」が開かれたようなものだろう。「窓」が開かれてしまえば、その「窓」から見える景色は、その「窓」の景色となる。その景色の中に、「この世」のあらゆるものが秩序づけられる。いままで、真宗と他宗が相対関係に見えていた視座が破れて、すべてがたった一つの「窓」の景色の中に包まれる。
 ここまで長々と述べてきたが、当初、「念仏誹謗の有情は」、あるいは「専修念仏にあたをなす」と怒りを込めて詠ってきたが、その怒りも、いまとなっては冷めてしまい、「われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」(『歎異抄』後序)と穏やかに、それを受け止められるようになった。そこへ立ち帰らせてもらうために、「まことに如来の御恩ということをばさたなくして」という阿弥陀さんからの批判を浴びるべきである。
 「よしあしということをのみもうしあ」っている次元を、一気に相対化する視線、それは阿弥陀さんからの視線であり、それを受けている身であることを思い知れということなのだろう。