オセロゲームの如き我が人生

どうも、我が人生はオセロゲームみたいだなと思った。それを狂歌にしてみた。
「我が人生 オセロゲームにこれ似たり 初めに打たれし 白色の石」
「黒石を重ねるだけの我が人生 まさか白石 打たれていたとは」
「白石に出会ったらならば 黒石は 一気に変わり 白石となる」
 どうも、自分は迷いに迷ってきたと思っていた。生きれば生きるほど、「黒石」が打たれていき、取り返しのつかないことばかりだと。今年で七十歳になるので、この七十年という時間経過の中で、果たしてどちらの方向に向かって生きているのか見当もつかず、迷ってきた。してはならないことをし、思ってはならないことを思い、言ってはならないことを口にして、恥ずかしい「黒石」ばかりを並べてきた。
 「他力」などと聞いても、そんなことがあるものかと、どこかで疑ってもいた。「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」だなどとは、とても思えなかった。
 しかし、〈ほんとう〉のことは、その「黒石」のずっと以前に「白石」が打たれていたのだ。まさか、そんなことがあろうかと、愕然とした。
 自分がどこから始まったのかと言えば、それは「誕生」ではない。「誕生」するための縁は両親であり、またその両親へと拡散していく。「誕生」は、どこまでも縁であって、因ではない。自分の発生を溯っていくと、どこまで行くのだろう。それをメタファーで「十劫の昔」と言ったのだろう。「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(浄土和讃)の「十劫」だ。「十劫」とは、とても人間の知で測りうることなどできない。言えば「永遠」だ。そこから自分が発生してきた。つまりは、「他力」が〈真実〉だったのだ。
 その「十劫」の昔に「白石」が打たれていたことに、いつ気づくのかと言えば、それは「いま」である。
 そもそも、「弥陀成仏」などという表現は、阿弥陀さんから我々に突きつけられた挑戦状のようなものだ。阿弥陀さんは、「これを、お前はどう受け止めるのだ」と突きつけてくる。それにも関わらず、これが挑戦状だなどとも思わず、ただ他人事のように無自覚に、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」などと、お勤めしてきた。実は、〈ほんとう〉は、これが挑戦状だったのだ。
 阿弥陀さんが法蔵菩薩だった頃、法蔵菩薩は本願を発した。あらゆる衆生を苦しみから救いたいという願いを起こし、この願が達成されなければ、自分は阿弥陀仏には成らないと誓った。だから、法蔵菩薩の願が達成されて、阿弥陀さんと成られたときには、あらゆる衆生が苦しみから救われていなければならない。それが「弥陀成仏」という状態だ。もし一人でも救われていない衆生が残っていたなら、「弥陀成仏」とは成らない。
 しかし、どうだろうか。あらゆる衆生が苦しみから救われているだろうか。一人残らず、苦しみから解放されているだろうか。そう問うてみると、そんな状況にないことは明らかだ。こういうことを言っている自分自身が、まず救われていないではないか。
 それであるのに、「弥陀成仏」とは、まったくナンセンスな、よくそんなことが臆面もなく、いけしゃあしゃあと言えたもんだと思える。そんな話は、嘘八百であり、架空のお伽話じゃないかとケチを付けたくなる。
 それでも、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」なのだと言う。さらに「弥陀成仏」の状態から、すでに「十劫」という時間が経っていると、まで言う。自分がこの世に発生する、遙か昔に、すでに「弥陀成仏」だと。あらゆる衆生が苦しみから救われてしまっていると。こう考えると、やはりこの表現は、阿弥陀さんから私に突きつけられた挑戦状に間違いない。これをお前はどう受け止めるか、と迫ってくる。
 この挑戦状こそが、「白石」だった。思いもよらず、この「白石」が打たれたら、いままでの「黒石」が一気に、すべて「白石」に引っ繰り返ってしまった。オセロゲームとは、そういうゲームだ。「白石」と「白石」で挟まれた「黒石」は、それがどれほどの数であろうとも、一気に「白石」に引っ繰り返ってしまう。つまり、自分の人生は、自分から始まっていなかったということだ。それは「弥陀成仏」の昔に起源があった。つまり、「永遠」が起源なのだ。
 「いま」打たれた「白石」の一手で、いままでの数知れない「黒石」が、すべて「白石」に引っ繰り返った。なぜならば、自分が発生する前に、すでにして「白石」が打たれていたからだ。それが「弥陀成仏」だった。実は、この「いま」と「十劫」前の「弥陀成仏」が同時に成り立つというのが、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」という和讃の意味だった。
 ストーリー(寓話)として読んでしまえば、「法蔵菩薩の本願が達成されて、阿弥陀仏と成られてから、十劫という長い時間が掛かったのだ」という読み方で終わってしまう。だが、これをナラティブ(信仰表現)として読めば、「弥陀成仏という〈永遠〉と、自分が生きている〈いま〉が同時に成り立つ出来事」と読める。「弥陀成仏」とは、昔話ではなく、まさに〈いま〉の出来事だったのだ。〈いま〉、目の前に「白石」が打たれてみれば、自分が発生してきた歴史すべてが「白石」に引っ繰り返された。そのことに〈いま〉愕然とする。
 親鸞も引っ繰り返された一人だろう。だから、「噫(ああ)、弘誓の業縁、多生にも値いがたく」(『教行信証』総序)とため息をついたのだろう。
 「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」とは、過去の出来事を語った和讃ではない。紛れもなく、〈いま〉のことだった。〈いま〉が「弥陀成仏」の時なのだ。それを我々が「過去」のことだと見誤ってきたのだ。この挑戦状を突きつけた阿弥陀さんの本心は、「私は、決して成仏などしていないぞ」、というものだ。「私が成仏するのは、〈いま〉、お前が救われるときを除いて、他にはないぞ」というものだ。
 そのことを伝えるために、遙か昔、つまり「十劫」の昔から、私と一心同体となってくださり、現在まで育て上げて下さったのだ。
この「十劫」という時間の重さが、〈いま〉はっきりと知らされた。この感動が、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」と吐露されたのではないか。
 それでめでたしめでたしで終わりそうな話だ。しかし、だ。私は、〈いま〉、〈いま〉と言って来たが、我々にとって、ほんとうに〈いま〉が成り立つだろうか。ここにも〈いま〉ということを、すでに分かってしまっているという「黒石」が潜んでいる。結論を急げば、人間には、〈いま〉は成り立たない。〈いま〉を押さえようとすれば、〈いま〉はアッという間に、「過去」に飲み込まれてしまうからだ。そうなると、「いまに十劫をへたまえり」というときの、「いま」とはいったい何を言っているのだろうか。
 これは〈いま〉を知らない我々に、永遠に〈いま〉を教えようとする阿弥陀さんの悲愛だったのだ。「過去」しか知らない人間に向かって、決して「過去」に飲み込まれることのない〈いま〉を与えようとする悲愛の表現なのだ。
 「救い」とは苦しみがなくなった状態を言うのではない。どのような苦しみがあろうとも、その苦しみと一心同体になって下さり、我々と同感・同悲されている阿弥陀さんを感じることだ。「無条件の救い」とは、そういうことだ。人間は「条件の変更」を「救い」と勘違いしている。「条件」を変えても、根本的な苦しみは消えない。そもそも、四苦八苦が苦しみの原因だからだ。それで阿弥陀さんは「無条件の救い」を達成した。つまり、条件をまったく変えず、一つも手を加えることなくそのままにしておいて、一気にすべてを変えるという秘技だ。
 「黒石」とは、自分の側に落ち度があり、不運だとか、情けないと自虐する態度だ。たとえそうであってもよい。そんなこととはお構いなしに、阿弥陀さんは、目の前に「白石」を突きつけて、「お前が生まれる遙か昔に、『白石』を打っておいたぞ」と訴えてくる。この「白石」で、自分の人生は一気に変わる。何も変わらないと愚癡を吐くが、それであっても、一気に変えられた中で、吐けばよいのだ。
阿弥陀さんと一緒に。