第六回 秋葉原親鸞講座の質問と応答

第6回 秋葉原親鸞講座(第5回2024.87.21)感想・質問への応答〔武田定光〕2024/9/25

1、法話というのはどういうものでしょうか?講座での話との違いはありますか?
Bよく機の深信(じんしん)で「頭を下げる」という表現がありますが、「自我」があってこその人間であり、「自我」がない犬・猫を目指しているのか?とふと感じてしまうのはおかしい感じ方でしょうか?
現代が知を信じすぎ「頭が下がる」必要があることは分りますし、私にとってとても必要で難しい事であり、大切な事であるのは分りますが……
でも犬・猫に代表されて述べられる動物的心性こそ取り戻すべきものであると聞こえてしまいなんとなくモヤモヤしてしまう私です。ああ、どこまでも限定!!の私よ~

武田→ Aのご質問は、「法話」と「講座」はどう違うのかという質問ですね。結論から言えば、「違う」側面と、「同じ」側面があります。「違う」側面は、やはり「講座」は、テキストなりテーマがあって、そのテキストの文面を、一応知的に辿りながら話は進みます。仏法の道理を知的に表現する傾向の強いのが「講座」です。しかし、「法話」は、そのような知的な勉強は横に置いて、その場のライブ感を重視して、単刀直入に話が進みます。もう一方の、「同じ」側面は、どれほど知的な学習を通しても、そこで生まれてくる言葉は、「一期一会(いちごいちえ)」のライブ感を抜きには成り立たないので、「講座」も「法話」も同じ深淵から言葉が生まれてくるという面では「同じ」です。これが違っていたら〈真・宗〉ではなくなります。
Bのご質問の確認ですが、貴方は「頭を下げる」ということを「自我」がなくなること、と理解されているのでしょうか。それを、「犬・猫に代表されて述べられる動物的心性こそ取り戻すべきもの」とお考えでしょうか。
 まあ、よくお説教では、「南無阿弥陀仏」の「南無」とは何かということを譬喩的に、「頭を下げるのではない、頭が下がるのだ」などと説明されますね。これは〈真・宗〉の真髄を語る表現だと思います。しかし、「頭が下がる」は「自我をなくすこと」ではありませんし、「自我をなくして、動物的心性」を取り戻すことでもありません。
 犬や猫は、確かに自然の道理で動いていますね。つまり、そこには人間のような「分別(ふんべつ)」がありません。先日、ある方に勧められて、「高名な政治学者」であるジョン・グレイの『猫に学ぶ』(みすず書房2021年)を読みました。もっとも本の原題は、「猫の哲学―猫と、生きることの意味』だそうで、この原題のほうが内容をよく表しているように思いました。ところで、彼は、こう言います。「これまでつねに自意識は人間の精神をふたつに引き裂き、辛い経験を、意識から隔離された部分へと押し込めようとしてきた。押し殺された痛みは、人生の意味をめぐる疑問を生む。痛みは苦しみを生み、やがて忘れられ、人生の歓びが戻ってくる。猫は自分の生活を検証する必要がない。この生が生きるに値するかどうかという疑問を持たないからだ。人間の自意識はたえまない不安を生み出し、哲学はそれを解消しようと必死に努めてきたが、その努力は空しかった。」
 彼は、かなりシニカルに「人間」批判を展開しています。人間には「自我意識」というものがあるから、苦しみ、「生きることの意味」などを求めるが、そんなことと無関係に生きている猫の尊厳さに学ぶべきだと言うのです。確かに、猫には人間にない部分を持っています。孤独に悩まないとか、人生を「物語」として見ないとか、「死」を知らないなど。しかしこれはあくまでも人間の眼から見た見解ですね。果たして、猫自身がどう思っているのかは分かりません。その前提を置いて、私から言わせれば、「猫は無分別そのもので生きているが、無分別の素晴らしさを自覚することはい。人間は無分別にはなれないが、無分別を素晴らしと知る智慧、つまり無分別智を得ることができる」ということです。「南無」とは、いわば「無分別智」を得ることであって、「自我をなくす」ことではありません。「無分別智」は、あらゆるものから仏法を学ぶことができる智慧ですから、もちろん猫からも学ぶことができるのです。猫を「手本」にして、無分別智を学べます。これは人間にしかできないことだと思います。

2、先生はよく「存在の零度」という言葉を使われます。「零度の存在」という時もあります。この2つに意味の違いはあるのでしょうか?

武田→ 〈存在の零度〉とは、「いま・ここ・私」の原点を表しています。自己はつねに「いま・ここ・私」以外を生きてはいないので、ここが〈存在の零度〉だという意味合いです。「いま」は時間、「ここ」は空間、「私」は主体です。これらをいくら意識的につかもうとしても、スルッと逃げてしまいつかむことができません。自己が知っている「いま・ここ・私」は、自己が知っている限りの「いま・ここ・私」でしかありません。それは〈真実〉ではありません。木村敏さんの言葉で言えば、「コト」です。
 もう一つの、〈零度の存在〉ですが、この「いま・ここ・私」を物的(ものてき)に名詞化した表現です。いつも使う譬喩で言えば、ドーナツです。〈零度の存在〉とはドーナツの穴です。ですから実体はありません。しかし、穴は確かに「ある」のです。この「ある」の側面が〈零度の存在〉という表現ですし、もう一方の、〈存在の零度〉とは、同じように穴なのですが、穴は「ない」のです。「ない」から虚空です。この「ない」の側面が〈存在の零度〉という表現になります。
 牽強付会ですが、親鸞の意味空間に変換してみれば、〈零度の存在〉とは「信」であり、〈存在の零度〉とは「願」になります。「信」も「願」も同じ出来事を両面に分けた表現です。「救い」の能動的側面が「願」であり、受動的側面が「信」です。「救い」という出来事は、両面から表現せざるを得ないのです。易しく言えば、「救うのは願」であり、「救われるのは信」となります。あえて二つに分けるのは、私たちが、相対的な意味空間で物事を把握するから、それに従って表現しないと混乱するからなのです。伝統的な言い方で言えば、「人・法」とか、「機・法」です。それを混乱しないように二つに分けて表現します。〈存在の零度〉と〈零度の存在〉も、それと同じ意味空間で受け取って下さればと思います。 

3、何回出席できるか不安を抱きながら申込みをした秋葉原親鸞講座も5回目となりました。次回も出席したいと思っています。残念ながら先生の講義の何%が理解できたか数値化することは差控えたいと思いますが、私なりに前進したことは間違いありません。有難うございます。こういう機会をいただけたことはお蔭様だと感じています。今後も自分なりに勉強?していく自信がつきました。継続する力?がいただけるつもりでおります。「阿弥陀さんの揺さぶり」とは何でしょうか?

武田→ まあ「阿弥陀さんの揺さぶり」とは、伝統的な言い方で言えば、「ご催促」です。私たちの人生に起こるさまざまな事件や出来事など、自分にとって不都合なことをすべて包んだ言葉が、「阿弥陀さんの揺さぶり」です。私たちは、この「揺さぶり」に出会ったとき、驚き、たじろぎ、うろたえます。しかし、それは、私一人を教育する阿弥陀さんの教材なのです。誰しもみな、この「(いのち)の学校」の生徒なのですから。
 しかし、もっと根源的に言えば、「不都合なこと」以外のこともすべて包みます。自己は、絶対受動態ですから、自己に現れる「思考・意志・感情」のすべても、自己にとっては受動的です。貴方が、この講座に申し込もうと決意したことも、当然、「阿弥陀さんの揺さぶり」です。いつでも、私たちは、「考えさせられて考えており、意志させられて意志しており、感じさせられて感じている」生き物です。ただ、その能動性を「自己」と呼ばずに、「阿弥陀さん」と譬喩的に呼び、受動性の部分を「自己」と呼んでいるに過ぎません。出来事は一つのことを言っているのですが、「阿弥陀さんと自己」を棲み分けて受け止めます。私たちが、つねに目の前にしているのは「無数の事物」と「人間」ですが、それを透過して、その奥の阿弥陀さんと対話していくしかありません。この世は、〈私一人〉が、阿弥陀さんとのみ対話し、対決する(いのち)のリングでもあるのです。

4、本日のお話ありがとうございました。勉強理解不足を承知の上で質問します。管理職やリーダーとして自分を律しよう高めようと努めるにあたり、坐禅や瞑想は「効果がありそう」という気が起こることもあるが、念仏からはそうした気がなかなか起こらないのが我が身の率直な実感です。「現世利益、自力作善か」「これは求めているものが異なる、そぐわないからかな」と自分の中では整理しようとしていますが、武田師からはこうした考え・体感はどのように見える、受け止められるでしょうか?また、現世における仕事で成果を求められる働く身には念仏とどう向き合うのがよいのでしょうか?

武田→ ご質問を読みながら、ずいぶん前ですが、生前、西本文英(にしもとぶんえい)先生(福井の念仏者)から、「千手観音のほんとうの手を知っているか?」と問われたことを思い出します。「千手観音像」は、体からたくさんの手が生えている観音菩薩の像ですね。私は、そう問われて、エッと戸惑っていると、先生は、「千手観音のほんとうの手は、真ん中で合掌している手だ」と言われ、さらに「あの真ん中の合掌の手が決まれば、千もの対応策が生まれてくるという意味だ」と教えてくれました。この譬喩が貴方の問いの出所に対する答えのような気がします。
 この「真ん中の手」とは、私の解釈だと、「阿弥陀さんと対話する生活」のことです。坐禅は、坐らなければできませんが、〈真・宗〉は、「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」を問いませんから、全生活のあらゆる場面が、阿弥陀さんとの対面の場になる可能性を秘めています。変な言い方ですが、〈真・宗〉は「生活禅」でもあるのです。
 講義の中でも、「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」というお話をしましたね。これを読んだとき、貴方のこころの中ではどういう反応が起こったかを見つめて下さい。それが、〈いま〉の貴方そのものが生きている意味空間(世界)です。「そんな馬鹿なことはない」という反応でしょうか。「そんなことを言ったら、犯罪者が増えてしまうではないか」、「自己責任はどうするんだ」、「こんなことを言ったら、無責任な人間ばかりになるじゃないか」などという、少し興奮気味の反感でしょうか。
 しかし、冷静になって再読してみると、そのうちに、「こういうふうに言えたらいいなあ、楽だろうなあ」と思えてきませんか。
 実は、この言葉に出会って、救われたかたがいたのです。そのかたは、ガンに罹り、悶々とした生活を送っていたようです。そのかたは、なぜガンになったのだろうと自問してきました。生活習慣が悪かったのか、飲酒のせいだろうか、あるいは食生活が悪かったのかと。何が悪くて自分はガンになったのだろうと自問していたとき、この言葉に出会ったのです。そのかたは、「そうか私は何も悪くはなかったのだ」と気付かれたのです。それだからと言って、悪いのは阿弥陀さんだと、阿弥陀さんを悪者にしたわけではありません。ただ、自分が自分を悪者にして責め苦しめてきた思いから解放されたのです。救われたからと言って、現状が変わるわけではありませんけれども、「こころ」が、以前とはまったく変わったのです。阿弥陀さんの救いは「無条件」です。つまり、現状をまったく変えずに救うのです。現状を変更することなく、救うとは、まさにこのことです。このようは話を聞くと、「なんだ現状は変わらないのか。それはこころの持ちようが変わっただけじゃないか」と思いませんか。それは違うのです。私たちにとっての「現実」とは、こころが作っているものですから、こころが変われば「現実」そのものが変わるのです。それに関連して、安田理深先生の言葉を紹介しておきます。「いかに大問題といっても、心のことである。人というも心、自分というも心で、仏というも衆生というもみな心である。だから心よりも小さく、またこれより大なるものはない。」(『安田理深選集 第九巻p58)

5、講座でお話を伺う中で、自分が漠然として感じていた事の意味や、その形に気付ける様に感じることも多く、刺激や面白さを覚えます。でもそれは自分が都合よく理解しているだけなのかもしれないなあと反問したり、しばらく放っておいてまた思い出したりと、自分自身と会話することが増えたことが何よりうれしく思います。

武田→ これが「憶念(おくねん)の生活」でしょうね。私たち人間は、「言葉の生き物」です。それをラテン語で、「ホモロクエンスhomo loquens」と言うそうです。ホモサピエンスが「知恵あるひと」という定義ですが、それと同義語くらいの重みがあります。
 私たちは、言葉で考え、言葉で「現実」を「現実」として発見します。言葉は「第二の皮膚」とも言われます。この「第二の皮膚」で、他者と言葉を通して関係します。これが第一次関係です。それから、自己と自己も言葉をとおして関係します。自分の見ている自己と、自己自身とが対話するのです。これが第二次関係です。さらに、真宗門徒は、第三次関係を生きます。それは自己と阿弥陀さんとの関係です。この第三次関係は、第一次関係と第二次関係を抜きには成り立ちません。ただ第三次関係は、第一次関係と第二次関係を、「そらごとたわごと、まことなることなき」(『歎異抄』後序)と、完膚なきまでに対象化される阿弥陀さんとの関係です。第一次関係と第二次関係は、「貪欲(とんよく)rāgaという知」で成り立っています。この「貪欲の知」を完全に相対化してしまうのが阿弥陀さんです。ただ、私たちは第一次関係と第二次関係以外を生きることはできませんが、これを対象化し、相対化される阿弥陀さんがおられるのです。これを私は第三次関係と呼びたいと思います。
阿弥陀さんとは、〈真実〉であり、「永遠」ですから、そこから無限の対話が生まれるのです。私たちは〈真実〉を生きることはできませんが、「生きることができない」と教えられるところに〈真実〉を感じ取ります。まさに「〈真実〉のデッサン」です。「そらごとたわごと」を「まことあることなき」と知ることができるのです。「まことあることなき」は阿弥陀さんと対話したところに賜る金言です。また、このように知ることを「救い」と譬喩的に語るのです。この世は、ことごとく「一喜一憂」する娑婆です。ただ、そのつど、「そらごとたわごと」と教育される阿弥陀さんと対面できる「悲愛の劇場」でもあります。