どうもノロウィルスに罹ったようだ。
孫たちから始まったノロウィルス感染が、とうとう自分にまでやってきたらしい。
孫が病院に行くと、「いま、江東区ではノロが爆発的に流行っている」と医師から言われたという。
これではもう感染を防ぐこともできない。お手上げだ。
当初、孫は寺には来なかったが、治りかけの段階で来るようになった。もう治りかけだから、大丈夫だろうという判断だ。引き受ける側も、「まあ大丈夫だろう」という判断だった。まあ、孫が感染源かどうかはわからないのだが。
それでも、「万が一感染してもいいや」と思って関わるのと、「絶対に感染はごめんだ」と思って関わるのとは、関係の仕方が違うなと教えられた。
「感染してもいいや」という関わり方は、自分のいのちを相手に差し出している関わり方だ。
そしてこれは、阿弥陀さんが我々に関わるときの関わり方ではないかと思った。
「群生を荷負して重擔とす」とは、このことではないか。