第16回・静岡親鸞講座の「質問&感想」に応えて(2024年9月18日)
二〇一九年一月二三日に第一回目が始まった「静岡親鸞講座」だが、コロナウイルス騒動を経て、今回で第十六回を数えることとなった。統一テーマは「正信偈に学ぶ」だが、前回(第十五回2024/06/03)のテーマは「『偶然』が『必然』に変わる時」とした。今回の箇所は「天親菩薩」を讃嘆した「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死薗示応化」に当たる。また、この回に出された質問&感想への応答を転載することにした。
1.先生の「大会衆の数に入る」の現代語訳「それはそのまま本願の力によって生きるようにさせられている存在の仲間入りをすることなのだ。」という表現が気になりました。生きようでもなく、生きねばでもなく、生きるようにさせられているという表現、…どう考えれば?
武田→ 私は「生きる」という言葉は、実に謎めいていて、不思議で、意味深長な言葉だと思っています。まあ、そのようなことも気にせず、普段は使っているのですが、よくよく考えてみると奥深い言葉です。それで、私の実感から言わせてもらえば、この「生」は「受動性」で始まっているので、「生きる」は受動形で成り立っているのです。自分の意志で生まれたいと願ったひとはいないのですから。
もっと厳密に言うと、「私は生きる」という表現には馴染めず、「生きるということ」を与えられている。つまり、「生きるようにさせられている」という表現がシックリくるのです。よく宗教的表現で、「生かされている」という表現を目にしますね。私も、ついつい苦し紛れに使ってしまうこともあるのです。しかし、本心から言えば、「生きるようにさせられている」と言いたいところなのです。
ここで、「大会衆の数に入る」を「本願の力によって生きるようにさせられている存在の仲間入り」と訳したのは、もともと我々は、生理的には、直接の母から生まれるのですが、その母の淵源を辿っていった究極が阿弥陀さんです。その阿弥陀さんの本願の力によって、生み出され、生きるようにさせられているわけです。それが〈真実〉だったと目が覚めて、周りを見渡してみれば、私たちはすべて「大会衆」です。「大会衆」とは、客観的にどこかにいる存在ではなく、〈我一人〉に信心の眼が開いたということを述べているのでしょう。その信心の眼に映ってきた光景が「大会衆」ではないかと思います。つまり、阿弥陀さんから生み出された有象無象の集合という意味です。ですから、たとえミミズであっても、「大会衆」の一員です。
2、法事の際にお経がどんな内容か気になっていましたが、たとえ意味が分からなくてもジャズやクラッシックのように聞き、深く自分と対話する。そういう場だとお聞きしありがたかったです。
武田→ 「お経」を学ぶときには、意味を考えることが必要です。しかし、法要や儀式のときには、意味を考えるのではなく、読経の音に身を任せておくことが大切だと思います。身を任せておくと、私たちの意識が表層から深層へと降りていき、たましいとの対話をすることができるからです。人間は自分で思っている以上に、奥深い存在です。なんと言っても、数十億年、いやそれ以上の年月を掛けなければ、私が一個の人間として生まれてこなかったのですから。何十億年を背景として、いま・ここ・私があるのです。
私は若いとき、意味も伝わらない漢字の羅列を読むことに、つまり、「読経」をすることに意味が有るのかと悶々としていたのです。しかし、いまでは、「分かる分からない」ということは表層の知のレベルのことだと覚めてしまいました。人間はもっと奥深い深淵を抱えています。その深淵を体感する場が、法要の場でしょう。それでなければ、何百年の間、「読経」という伝統が続いてこなかったのではないでしょうか、やはり、何百年の間、消えずに現代まで残ってきたのは、そういう意味があったからだと思います。
たましいと対話していると、自分が何を思っていたのかが、後から知らされます。「思い」とは、厳密に言えば、「思わされて思う」ということですから、自分が作為的に「思う」という行為をしているわけではありません。どこまでも、「他力」で成り立っているのが「思い」なのです。ですから、何を思うかは、私が思う以前には知らされていないのです。いつでも、「思った」後になって、「ああ、こんなことを思っていたのか」と知らされるのです。思わせていたのは、阿弥陀さんなのだと頂くのが、真宗門徒の頂き方だと思います。我が身は、阿弥陀さんの救済実験場ですから。
3、お経を聞いて、だんだん深く深く入っていくんです。…これは、意味深い言葉でした。第15回の講座は、なかなか難しかったです。今後の自分の栄養になる内容でした。
武田→ 私は、私の話を丸ごと理解していただこうとは思っておりませんので、分からなくて結構なのです。〈真・宗〉は、どこまでも、「詩的poetic(ポエティック)」な世界です。詩を味わうように聞き流してもらえれば幸いです。しかし、聞き流してもらっていれば、あるとき、現実生活の場で、「あれっ」と思うこともあるのです。「聞薫習(もんくんじゅう)」という言葉があって、「聞き流していれば、それが薫りとなって染みつき、生活習慣に作用してくる」という意味です。真宗門徒は、「仏法は毛穴からしみ込む」と言い伝えてきました。ですから、「分かる分からない」と追究するのも大切ですが、お聞き流し下されば幸いです。
4、遊戯が資本主義を超えるというお話とても興味深かったです。
最近はコスパ、タイパ、スぺパとパフォーマンスで表されることが多いので、それ以外が何か損した気分になります。私自身も本当に楽しめるものに出会えていない、そんなことに気付かされました。
武田→ 「コスパ」は「コストパフォーマンス」の略語で、「支払った金額に見合う効果や満足感、つまり費用対効果」だそうです。また、「タイパ」は「タイムパフォーマンス」の略語で、「費やした時間に対して得られた満足感や成果、効果の割合(時間対効果)を意味する言葉。」また、「スペパ」は「スペースパフォーマンス」の略語で、「自宅やオフィスなどの限られた空間を有効に活用することで得られる価値や満足度を表す言葉」だそうです。これらは、この世を生きる上に於いて、誰もがしていることでしょう。できるだけ効率よく、無駄なことをしないで済ませたいと思います。
これは渡部昇一さんが使っていた譬喩ですが、この世を如何に効率よく生きるかという知は、地面を走り回って休む暇もないダチョウの足のようなものだと。これをintelligence(インテリジェンス)と言います。しかし、人間にはもう一つ大事な知があって、それはトンビが上空から下界を俯瞰をするような知だと。これをintellect(インテレクト)と言います。トンビは羽根をバタバタ動かすこともなく、悠然と大空を飛んでいるけれども、それでいて全体を見渡している。まったく動かないようだけれども、全体を掴んでいる、こういう二つの知が大切なのだと言っていました。ダチョウの足とは、「how to」の知のことです。現代流に言えば、AIの知でしょう。それに比べてトンビの目とは、「Why」の知です。「いかに生きるか」と、「なぜ生きるか」の両方の知が大切だと言っていました。「Why」の知こそ信仰の知でしょう。
これに関連して、「そうだな」と私たちを納得させる神学者・ラインホルド・ニーバーの言葉があります。これは有名な言葉ですね。
「神よ
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれわれに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ」
これはニーバーの神への祈りですね。「祈り」であるということは、現状はそれが実現できていないということです。現状はそうなっていないから、「祈り」が起こってくるのです。しかし、現状がそうなっていないことを神への「祈り」として表白するとき、そこに第三の道が開けてくるのでしょう。「表白」とは、別の言葉で言えば、「外化・対象化・意識化・言葉化」です。ひとがどんなことをこころの中で思っていても、それが「外化」されなければ、それは歴史上に現象として現れることができません。ひとたび「外化」されたとき、初めてそれと自分が向き合うこととなります。牽強付会ですが、私たちの「南無阿弥陀仏」が「観想念仏」だったものを、「称名念仏」へと「外化」したこととつながります。「外化」とは、「音声」として発語することで、現象界のものに変換することです。つまり、「南無阿弥陀仏」が「音声」になることで、空気を振動させ、自分の鼓膜を振動させます。つまり、発語されることによって、自分が「聞く」という位置を与えられます。この「聞く」というところに、自己が「凡夫」として「基礎づけ」られるのです。「称える」ものは、「諸仏の位相」、それを「聞く」ものは「凡夫の位相」と。
●もう一つ、「楽しみ」ということについて、親鸞聖人は曇鸞大師の『浄土論註』を引用して、こう述べています。(『教行信証』証巻・聖典①p295②p339)
「楽に三種有り。一には外楽、謂わく、五識所生の楽なり。二には内楽、謂わく、初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三には法楽楽、謂わく、智慧所生の楽なり。此の智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起これり。」
「外楽」は、欲界の楽しみ、「快不快」の快でしょう。「内楽」は、メディテーションで感じることのできる変性意識の楽しみでしょう。薬物の幻覚・妄想・陶酔なども含むでしょう。親鸞聖人が言いたいことは、「法楽楽」です。これは「智慧」から生まれた「楽」であって、仏法を愛することから生まれる喜びだと言います。果たして、仏法を聴聞することから得られる喜びとはいかがなものでしょうか。
仏法聴聞の味わいとは、不思議なものです。〈真・宗〉の話は難しいので、人間は本来、聞きたくはないのです。もともと、「不可称・不可説・不可思議」ですからね。しかし、難しいのだけれども、それでも何だか気になって聞きたくなってくる。もっと言えば、聞かざるを得なくなってくる。そういう味わいのものでしょう。
これは「真理の味」ではないかと思います。親鸞聖人のものを読むと、自分では決してその世界と一つにはなれないけれども、何かが満たされます。それは「真理の味」でしょう。天親菩薩の『浄土論』では、「愛楽仏法味」と出ています。「仏の法味を愛楽する」と。「分かる分からない」を超えた「真理」に触れると、「分かる分からない」を超えた喜びが与えられるのです。私は、お話の中で述べましたが、「〈真・宗〉は『死なない』宗教」という言葉で「外化」された意味空間が〈真実〉だと教えられ、とても助かりました。助かるということは、ホッとすることです。ただし、やはり「ひとは死ぬ」と思っている自分も、確かにあるのです。でも、この自分は「そう思っている自分」であって、「真理」とは違います。「真理」はどっちだと問われれば、「死なない」のです。これが「真理」だと教えられると、「そう思っている自分」に騙されなくなるのです。いつでも「真理」に目ざまされ続けること、これが「楽しみ」となるのです。
5、基礎づけとは、仏教の教えを聞いて基礎づけられるというイメージでしたが、そうではないのでしょうか?
「今、ここ、私」という現実によって基礎づけられる。その事実、その命によって基礎づけられる。あぁこれが教えであったということでしょうか?
武田→ 〈真・宗〉で言う、「基礎づけ」とは、一言で言えば、教えと対面している場面で、「そうであったか!」と膝を打つということでしょう。妙好人・因幡の源左が牛に草束を背負わせているとき、フイッと分からせてもらったという分かり方が、そうでしょう。それまで、源左は分かろう分かろうと悶々としていたのです。それはあたかも自分の中に何かを溜め込み、自分の中で解決しようとしていたのです。その袋のような自分の知が爆発して、底が抜けてしまったのです。底が抜けてしまったのですから、そこは、まさに「虚空」です。親鸞聖人が言う、「虚無之身無(こむししん) 無極之体(むごくしたい)」(『教行信証』真仏土巻・聖典①p323②p376)です。「虚無」とは、空しいマイナス感情ではなく、全宇宙と自己が一体になった感動です。竹部勝之進さんの「ヒカリ」が、それを言い当てています。
「コドモガカクレンボウヲスルガ ミヲカクスコトハデキナイノダ 木ノカゲニカクレテモ 森トトモニアルノダ 天地トトモニアルノダ」(『詩集はだか』)もう一つ、「垣ヲスル」も同じことを表現しています。
「垣ヲスル 垣ヲシテ 垣ノウチダケヲ ワガモノト思ッテイルガ ソウデハナイ 天地ガワガモノデアル」。
「基礎づけ」というと、強固な足場に鉄柱でも打ち付けるイメージですが、そうではありません。それであれば、「基礎づけ」られた場所は、固定してしまい、「いつでも性・どこでも性・誰でも性」は成り立ちません。この〈真実〉の三ルールに適っていなければ、「基礎づけ」ではありません。変な譬えですが、子どもの頃に遊んだ、「宇宙ゴマ」みたいなものでしょうか。
6、理解するのが中々困難な講義でした。
武田→ 私は、「理解」を望んでいませんし、「理解」しなくて結構です。ただお聞き下さればよいのです。仏法聴聞とは、「理解」するものではなく、仏法の言葉を無限に浴び続けることです。万が一、人間に「理解」されてしまえば、人間は、「分かって」しまい、「分かった」ことに対して、人間は感動しません。「分かって」しまえば、「ああ、そんなことか」と詰まらなくなり、馬鹿にするのです。ですから、仏法は、詰まらなくならないために、人間には決して「理解」できないように出来上がっているのです。貴方を一生の間、ワクワクドキドキさせるためにです。
7、分かりやすいお話で良かったです。ありがとうございました。
武田→ 面白いですね。前のかたは、「理解するのが中々困難な講義」とおっしゃり、このかたは、「分かりやすいお話」とおっしゃる。これはどうしたことでしょうね。果たして、私の話が易しいのか、難しいのか、これもまったく分かりません。まさに「面々の御はからい」(『歎異抄』第二条)の出来事だと思います。庄松さんも、「己(お)らが本願つくったでなし、助けてやるものを持っているでなし、何も聴かせるようなものはない」(『庄松ありのままの記』永田文昌堂)とおっしゃいますね。仏法は、法の道理ですから、各人各人が、各人各人で味わうものです。しかし、何で仏法に心が動くかと言えば、私たちはもともと、「仏法の道理」で生きているからなんです。譬喩的に言えば、「浄土の中で暮らしているから」なのです。浄土の中で暮らしているのですが、そのことに気付かないだけなのです。そういう理由で、「仏法聴聞」が大切なのです。
8、自分に起こった嫌なことやしくじった時は、偶然だと思い、うれしい事やうまくいった時は、必然だと思いたい。偶然と必然を自分に都合よく、受け取っています。いつか、阿弥陀さんに説得される時がくるのでしょうか?
武田→ お尋ねの文章を見る限り、もうすでに「阿弥陀さんに説得され」ているのではないですか。「嫌なことは偶然、嬉しいことは必然」だと使い分けていることをご存じなのですから。親鸞聖人も「凡夫というは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河(すいかにが)のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』聖典①p545②p667)とおっしゃいます。
大事なことは、この文章が、親鸞聖人の自己反省ではないということです。つまり、自分が自分のこころを顧みて、「このような愚かな者だ」と歎いているのではないのです。これは、愚かな姿を自分のこころに照らして反省しているのではなく、阿弥陀さんの鏡に映された我が姿を、ありのままに表現しているのです。つまり、どんなに愚かなこころが起こったとしても、それが阿弥陀さんの鏡に映されれば、この愚かさが「教え」に転じるのです。
ですから、どんな愚かなこころが起こったとしても、それは自分が起こしたこころではなく、業縁(ごうえん)のもよおしで起こってきた愚かさなのです。ですから、自分自身でもビックリするような醜いことを思ってしまうこともあります。喧嘩が高じた挙げ句に、「お前なんか死んでしまえ」と思うことすらあります。それは私に起こった「瞋恚(しんに)」ですが、私が起こした「瞋恚」ではないのです。私は、縁がもよおせば、どのようなことでも思う恐ろしい器です。
思い出しましたが、大岡昇平さんが、戦時下のフィリピンで米軍と戦っているときの、なまなましい話です。負け戦になり、自分たちの部隊はバラバラ散り散りになってしまい、大岡さんは、疲労困憊し草陰に倒れ、へたっていました。そのとき、向こうから銃を持った米兵がこちらに近づいてきたそうです。このままなら、必ず見つかってしまい撃たれてしまうだろうと思い、彼は自分の銃を構え、もし見つかったら、彼よりも早く引き金を引こうと決意しました。ところが、そのとき向こうの方で、何か物音がして、米兵は向きを変えて、そっちのほうへ行ってしまい、彼は引き金を引かずに済みました。
その体験を大岡さんは深く受け止め、幸いにも帰国した後に問題にされ、『俘虜記(ふりょき)』という小説にまとめられました。その本の扉に、『歎異抄』第十三条の「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。」(聖典①p633②p776)と記されているのです。
自分が銃の引き金を引かなかったのは、自分のこころが善良だからではないのだ。人間は縁がもよおせば、どれほど残虐なことでもする生き物なのだということでしょう。しかし、私たちは、残忍な事件などを目にしたり聞いたりするとき、その加害者を「根っからの悪人」だと見てしまいますが、そうではないのだというのでしょう。そのように見てしまうということは、自分たちは、「善良」な人間だと自惚れていることの証明なのです。「普通の人間ならば、そんな残虐な行為はできないはずだ」と考えている自惚れが、そう考えさせてしまうのです。
大岡さんは、人間とは、縁次第でどのような行為をもするものだと、つくづく言いたかったのではないでしょうか。『歎異抄』で親鸞聖人が「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」(聖典①p634p776)②とおっしゃった言葉が、いまさらながら重たく思われます。
現代語に訳せば、「そのように行為する、あるいは思うような、避けられない必然性がやってきたならば、自分は、どのような行為や思いもも犯してしまうものなのだなあ」でしょうか。皆さんは、この『歎異抄』第十三条の言葉を、どのように受け止めますか。
私は残念ながら、これを「自己弁護・自己保身」につかってしまうのです。自分でも恥ずかしくて言えないような行為をしたときや、思いが沸き起こってきたとき、「さるべき業縁のもよおしだから、仕方がないなあ」と、自分を許し、自分を守ろうとするのです。
そこまで阿弥陀さんはお見通しなのです。「お前は、どこまで行っても自己保身と自己弁護の生き物だぞ」と。その底までお見通しの上で、あえて、この言葉を「凡夫」にお与えになったのだと思います。「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」とは、親鸞の独白のように書かれていますが、実は、このように阿弥陀さんが書かせた「如来回向の教言」だったのです。
この言葉が「教言」だと転じたとき、これは自分自身を深く照らし出す、阿弥陀さんの言葉に変わります。これが阿弥陀さんの「教言」にならない間は、自己反省の「強迫観念」の表白になってしまいます。もし、この言葉を親鸞の独白とだけ受け止めていたのでは、それが見えません。実は、阿弥陀さんの「教言」だったと目覚めたとき、「強迫観念」から解放されるのです。阿弥陀さんが、自己一人にだけ直接教えて下さる「教言」ですから、それは、輝きを放つ「ひかりの言葉」となるのです。