阿弥陀さんと人間の関係は、デジタルだ。デジタルとは「白か黒か」、「真は偽か」という関係だ。しかし、人間と人間との関係アナログだ。アナログとは「程度の問題」という意味だ。親鸞も、「酒はこれ、忘憂の名あり」(『口伝鈔』)と、粋なことを言ったり、あるいは、弟子を叱って、「善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうり(北郡)にそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。」(『御消息集』(広本)第四通)などと言っている。
師を謗る者は「謗法」の者、親を謗る者は「五逆」の者であって、善証坊は親を謗り、私(親鸞)を謗ったので、決して近づけなかったと言う。
これは、親鸞が人間に向けて表現している文章だから、アナログ表現だが、阿弥陀さんとの関係はデジタルなので、表現の位相を異にしている。阿弥陀さんとの関係で言えば、「五逆・誹謗正法」は、親鸞自身の罪として受け止められている。阿弥陀さんを信じていると思っていても、〈ほんとう〉に、信じているのかと問われると、自信がなくなる。それは「自分が信じる」という前提があるからだ。親鸞にとって、「信じる」とは何があっても、どれだけ条件が変わろうとも信じると言えなければ、「真実の信」ではないと思っている。それこそ、「よるひるつねにへだてなく」(『浄土和讃』)信じるという状態が継続しなくては、「真実の信」ではない。「いやいや、起きているときは、まだしも、寝ているときにも信じることなどできません」と言ってしまえば、それは「真実の信」ではないのだ。
阿弥陀さんとの関係は、「白か黒か」、「信か偽か」のデジタル関係だから、恐ろしい。ナザレのイエスも、「姦淫」を犯した女性を裁く場面で、人々に向かって、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」(マタイ書5-27)と言っているから、親鸞的な感性だ。「肉体的な姦淫」と「精神的な姦淫」を同罪と見るのは、神とのデジタルな関係が言わせた言葉だろう。つまり、精神的行為と心理的行為は同質だという見方だ。ベジタリアンが、焼き肉の匂いを嗅いだとき、「美味そうだ」と感じてしまうことと似ている。まあ、我々の内面もアナログに出来上がっているので、牛の解体は残酷だと批判しても、マグロの解体ショーを見ては、美味そうだと感じてしまうのだ。
いずれにしても、デジタルな関係は、ほんの少しの些細な罪も見逃さない。以前、「牛肉どまんなか ひと口食べては造悪無碍 ひと口喰わねば善人往生 いずれも同じ 無仏の住人」(『救済詩抄』)と書いたことを思い出す。駅弁日本一の「牛肉どまんなか弁当」を食べるか食べないかというアナログ問題に対して、どちらに転んでも程度問題であり、いずれも肉食という罪から逃れることができないという問題提起だ。それはどこまでも問題提起であって、結論を出すことができない。結論を出させないのはデジタル関係があるからだ。
そこで、『歎異抄』は「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。」(第十三条)とデジタル関係を生きる軸とせよと言うのだろう。アナログ関係で、善悪が発生しても、それは「他力」のもよおしであって、どこにも、それを受け止めるだけの孤立した責任主体はないと。すべては「他力」のもよおしだと。そのように孤立した責任主体になろうとする企みを手放してしまえばよいと。そうすれば、「一切衆生の大地」に着地することができる。
もっと言えば、「一切衆生の典型としての自己」を手に入れることになる。それは阿鼻地獄に堕ちることを恐れおののいていた阿闍世が、「我、常に阿鼻地獄に在りて無量劫の中に諸々の衆生の為に苦悩を受けしむ。以て苦とせず」(『教行信証』信巻)と述べた宣言と同じだ。地獄を恐れていた阿闍世は、罪を慚愧した。慚愧とは後悔であり、徹底的な反省だ。それは人間である限り起こってくる感情だ。しかし、その感情は、「善人志向」であった。罪を自分から切り離して、綺麗な自分に戻りたいという欲だった。それに気づいた時、阿闍世は、「善人志向」こそが罪だと気づき、喜んで無間地獄へ堕ちていったのだ。この無間地獄こそが、「一切衆生の大地」であり、阿弥陀さんとデジタル関係を結ぶ場所だからだ。変な譬喩だが、そこが「無間地獄」であると同時に、「無間浄土」なのだ。