「外化」という言葉をGoogleで検索したら、「書く、話す、発表するなどの活動を通して、知識の理解や思考したことなどを表現すること。可視化(見える化)とも呼ばれます」とあった。
先日、茨城県の大子温泉に研修旅行で行った。袋田の滝へ向かう道の店先に幟が立っていて、「やまくじら」と書かれていた。私は、隣にいたひとに、「やまくじら」って知ってる?と問いかけた。彼は、「知りませんね」と言うので、私は、「刺身こんにゃく」のことだよと、あたかも知ったかぶりで応えてしまった。しかし、そう言ったはよいものの、なんだかこころの座りがよくなく、これまたGoogleで検索してみたら、なんと、これが「イノシシの肉」だと判明した。それで彼に、「やまくじらっていうのはイノシシの肉のことだそうだよ。知ったかぶりしてゴメンゴメン」と誤った。
そして私は何と勘違いしたのかと、さらに追究してみたら、私の言いたかったのは「ヤマフグ」だった。これは刺身こんにゃくのことで、コンニャクも薄切りにすると河豚の身に似ているので、そのように呼ばれる。しかし、近頃の「ヤマフグ」はへにゃへにゃで、とても河豚の身のようにコリコリ感のないだらしのないものばかりだ。
ずいぶん昔、京都の嵐山のお店で食べた刺身こんにゃくは、まさにコリコリ感があり、これこそが「ヤマフグ」に相応しいと思ったものだ。
それはさておき、もし私が「やまくじらって知っている?」と言葉を発しなければ、そのような間違いに気付くこともなかったのだ。ここで私は「外化」ということが、いかに大切かということを学ばせてもらった。「外化」の類語になるだろうと思われる言葉もある。「対象化、意識化、言語化、物象化、現象化、行為化」などが、それに当たる。もしこころの中だけのことで終わっていたならば、それは決して、「この世」の現象界には姿を現すことがない。「外化」されることで、つまり言葉を発することで、初めて自分自身が、逆にその言葉から問われてくるのだ。私の主張する、「反問性」が生まれる。
そう思っていたら、本願の第十七願にこころが動いた。第十七願とは、「諸仏称名の願」である。これは王様である阿弥陀さんが、家来である諸仏、つまり無量無数の仏さんに褒められたいという願である。褒めるためには、発語しなければならない。南無阿弥陀仏と発語されたいということを願った願だ。
「称名」とは、いわば「外化」である。音声言語で、現象界に表現することだ。いままでの、つまり、親鸞以前の「念仏」とは、「観想念仏」だった。仏を憶念し、メディテーションによって真理を受け取ろうとするこころの構えだ。こころの中で、つまり瞑想しながら仏を思うことのほうが、ナンマンダブツと声を出すことよりも、上等な行為だと思われていた。つまり、それは「外化」を恐れることだ。こころの中のことは尊いが、それが言葉として発語されてしまうと、汚れてしまうと思っているのだ。こころの中で思ったことは、周りのひとに覚られることがない。どんなことを思っていても、周りからはわからない。ところが、それを言葉にして「外化」してしまうと、周りのひとに覚られてしまう。また、それは優秀なひとだけに許された行為ではなく、劣った人間でも、誰にでも成り立ってしまう。特権階級の専有物だった「念仏」が、一般大衆に公開されることになってしまう。それを恐れた旧仏教は、法然・親鸞を弾圧した。
「称名念仏」の重視は、唐の善導から始まり、それが法然へ受け継がれ、そして親鸞にまで届いた。
「称名念仏」とは、肺から呼気を吐き出すときに、声帯を通過する空気を揺らすことで「音声」に変える行為である。それは間違いなく身体的な現象だ。瞑想とは明らかに違う。親鸞以前は、称名よりも観想のほうが大事だと思われていたものを、瞑想の念仏よりも称名念仏が〈真実〉であり、むしろ、称名念仏以外は捨てなければならないというところまでいった。それは「外化」の重要性に気付いたからだろう。
親鸞にとって、「称名」の目的は、「聞名」である。つまり南無阿弥陀仏と発語するその音声を聞くところに「自分」を立てた。もっと言えば、「称える」のは「諸仏」の次元であり、「聞く」のは「凡夫」の次元であると棲み分けた。それを明確にするために、「称名念仏」を重視した。「称える」ところに自分を置かない。「称える」のは、あくまでも「諸仏」なのだ。それは、自分の意志で自発的に南無阿弥陀仏を称えることができないという認識に立っている。南無阿弥陀仏と「称える」ことそのことは、如来の促しである。ただ、その音声を受動して、「聞く」というところに「自己」をいただく。
「外化」することで、いままでこころの内面というものを神聖化してきた意識が解体される。音声化することで、「この世」、つまり「娑婆」の現象に変えられてしまう。一旦、「娑婆」の現象に変えられてしまうと、「内面の神聖化」が破られ、再びそれは、自己を問う言語に変化する。これは不思議なことだ。明らかに、他者から見れば、私が「南無阿弥陀仏」と称え、その声によって、再び私が教育されるのだから。
群馬県桐生市の本然寺住職だった野田妙薫さんは、「ひと声も役に立たさぬ嬉しさに となえてはみつ みてはとなえつ」と詠われたそうだ。これが「外化」の意味をよく表している。野田さんは、「南無阿弥陀仏」と発語された。発語が、自己から始動するものだと考えると、どうしても何某かの目的や意味を目当てにしてしまう。目当てにして、「南無阿弥陀仏」と発語する。しかし、一旦、「外化」されて発語されてしまえば、それは発語されたことで完結する。どれだけ意味や目的を立てていたとしても、それは肩透かしをくらう。それが、「役に立たさぬ」という意味だ。発語された途端に、それを聞く自己が誕生させられるからだ。つまり、「役に立たせよう」と思っている意志が解体されるのだ。「役に立たせよう」と思って動く意志が、「役に立たさぬ」阿弥陀さんのはたらきによって解体されたのだ。
解体されてからは、どれだけ「南無阿弥陀仏」と発語しようと、あるいはしなくても、それは阿弥陀さんまかせとなる。「称名」は阿弥陀さんの促しだから、ひとつも自分の意志ではないと受け取る「自己」が誕生したことになる。
それは、「役に立たせよう」とする意志がなくなったことを意味しない。この意志は、人間である以上、死ぬまで動き続ける。死ぬまで動き続けるから、阿弥陀さんも、それを「役に立たせぬ」ようにはたらき続けてくださるのだ。