メタファーとは、この世の知性に決して還元できない「あること」の表現である。一般に、「メタファー」とは「隠喩」とか「暗喩」と訳される。しかし、それでは十分に、私の使う意味を表してはいない。因みに、我々がよく使っているのは「直喩」である。直喩とは、「~のようだ、~ように」などのたとえを表す言葉が使われているたとえ方で、「太陽のように明るいひとだ」とか「氷のように冷たいひとだ」などという使い方をする。一方の、隠喩は、「~のようだ」などのたとえを表す言葉が使われていないたとえ方で、文字を読んだだけでは比喩であることが判断できないような表現方法だ。例えば、「人知は闇だ」、「未来は明るい」、「彼は金槌だ」、「風前の灯火」などの用例がある。
これは文章の修辞法における「隠喩」なので、「~のように」はないけれども、前の単語の意味を丁寧に説明されれば、理解できる。しかし、私の用いる「メタファー(隠喩)」とは、前の単語を説明されても理解が及ばないような表現のことだ。その最たるものが、「南無阿弥陀仏」という言葉だ。これは修辞学的な「隠喩」でもある。つまり、「阿弥陀仏に南無すること」と説明されるのだが、その意味を更に追究していくと意味不明となる。そもそも、「阿弥陀」とは、「無限定」という意味だからだ。知的に、つまりは「限定的に」理解することを超えている。
しかし、〈真・宗〉は、すべてがメタファーで出来上がっている言語体系なので、知性で挑もうとすると挫折する。他にも親鸞が使う、「本願海」、「群生海」、「大道」、「如来回向」などもメタファーの最たる表現だから、知性では歯が立たない。この「歯が立たない」も隠喩だった。
さて、それでは我々は、どのようにして〈真・宗〉にアプローチすればよいのだろうか。この問いは自然な問いなのだが、この問い方自体がもっているアポリアがあって、この問い方では、決して扉が開かない。この「どのようにして」という問い方そのものが、知性から生まれた問いだからだ。つまり、「どのようにして」という問い方をしている限り、どこまでアプローチしても空回りとなる。
実は、その「どのようにして」という問いが無効だと知らされることを通してのみ、開かれる深層の智の世界である。親鸞は、それを「信心の智慧」と言っている。「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」(「正像末和讃」)と和讃で詠っている。それに比べて「胎生のものは智慧もなし」と批判される。「仏智を疑惑するゆえに 胎生のものは智慧もなし 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとえたり」(同書)と。ここで「胎生のものは智慧もなし」と批判される「智慧」とは、知性のことではなく、「信心の智慧」のことである。
「信心の智慧」と「知性」との関係は、深層と表層である。つまり、「知性」は「知性」だけで単体で動いているものではないのだ。知の表層で動いている「知性」を深層で生み出しているのが、深層の「信心の智慧」である。これは唯識思想の援用から浮かんできた発想だ。深層とは阿頼耶識と言われる。その阿頼耶識から、末那識という自我意識が生まれ、さらにその自我意識が表層の「how to」の知を動かしていく。つまり、表層の知性は枝葉であり、その幹を支えている深層の阿頼耶識が動かしているということになる。
〈真・宗〉では、末那識を「自力のこころ」と呼んでいるが、それすらも阿頼耶識の発動である。だから、「自力のこころ」を抹殺することは、阿頼耶識をも殺してしまうことになる。親鸞が「回心」という翻りを語るのは、「自力のこころ」を抹殺しようと足掻いていた知が翻り、「自力のこころ」そのものが阿頼耶識の運動だったと気付くことである。そのように気付くと、表層から深層を追究する動きが逆転し、深層から表層へと流れていくようになる。「流れていくようになる」という言い方は、正確ではない。「本来」、深層から表層へ流れていたものなのだから、「本来の流れに気づく」というだけのことだ。
簡単に言えば、自分に「考えがやってくる」、つまり始動する始発点に、「自分」という実体があるわけではなく、深層から、「考え」が起こってくる必然性に促されて「自分が考えている」ということに気付くだけだ。「考える」のは、唯一無二の特殊な自己だが、「考えさせるはたらき」は、深層にある普遍的な自己である。
つまり、これが人間が「考える」ということの〈真実〉であって、その〈真実〉の法則を、「その通り」と追認することが、「信心の智慧」である。
〈真・宗〉は、「いま・ここ・私」に起こっていることに、何かを足したり、改造したりする教えではない。「いま・ここ・私」に起こっていることを、ありのままに、「その通り」と追認することなのだ。〈真実〉とは、そういうことだったのかと思い至るだけだ。だからと言って、自分と〈真実〉が一つになるわけではない。相変わらず、知性は知性の法相に則って、「how to」の知として動いてはいる。それはそれでよいのだ。「自力のこころ」が「自力のこころ」として健康に動いているということなのだから。「自力のこころ」が起こっていても、「また『自力のこころ』で考えているな」と気づいていればよいことだ。しかし、〈真実〉は、表層から深層ではなく、深層から表層へと流れているのだと知っているだけのことだ。このように〈真実〉と「仮の世界」が棲み分けられればよいのだ。この棲み分けこそが、こころの安定をもたらしてくる。単純に言えば、「考え」は、「考えた後」でしか、「考えていたこと」に気づくことができないということだ。何を「考える」かは、「考える前」には知らされていないのだ。
唯識には、「異熟と等流」という興味深い言葉がある。「異熟」とは、文字通り「異なって(結果が)熟す」という意味だ。私という存在の背景には、無量無数の先祖のいのちがあった。三十代前の先祖の数は、十億七千万人以上だ。いのちが「単数」から始まったのか、「多数」から始まったのかは分からないが、始まりとは、異なった結果が、「唯一人」としての私の存在である。これは、「特殊」である。もともとの原因とは異なって熟したものだから、私は「異熟果」である。
しかし、「脊椎動物」とか、「動物」とか、「人類」とか、これらを厳密に探っていくと、さまざまな生き物の因を内に秘めていることが分かる。その意味では、他のいのちの因が私に「等しく流れて」いる。この位相から見れば、私は「等流」である。つまり、「異熟」という位相と、「等流」という位相を兼ね備えた存在が、「唯一人」としての自己である。つまり、「一切衆生の特殊」であると同時に、「一切群生の典型」という、実に不可思議な複合体なのである。しかし、「常識」は、「一切衆生の特殊」の位相しか知らされない。だから、不都合なことが起こると、「私だけが不幸」と閉塞させてしまう。しかし、〈真・宗〉は、そこに「一切衆生の典型」を、思い出させる。これを思い出すと、「私の感じる不幸は人類普遍の不幸」へと普遍化する。つまり、「不幸」でないひとは、この世に存在しないと気づく。さらに、「幸・不幸」を差別する「自力のこころ」をも「対象化」してくる。そして、「幸・不幸」などは、「自力のこころ」が生み出す幻想だと覚めることになる。だから、この「棲み分け」は、〈ほんとう〉の利益を与えてくれるのだ。