今朝のお朝事の和讃は「善知識にあうことも おしうることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなおかたし」だった。
「かたし、かたし」と連続するので、そんなに難しいことなのかと思えてしまう。そう言えば、昔の自分は、そう思っていたなと懐かしく思い出す。ここに親鸞のトラップがあったとは、気づかなかった。
この「かたし」は「困難」の「難し」ではない。「不可能」ということだ。英語で言えばdifficult ではなく、impossibleだ。昔の自分は、difficultで読んでいたから、それほど難しいことなのか、それは大変なことだと感じていた。この「かたし」を「困難」と受け取る意味空間を、親鸞は「第19願の意味空間」として教えている。それは「自力の意味空間」だから、自分の努力では決して達成できない難しいことと受け取ってしまう。これはある意味で絶望的だ。この絶望感を生みだしてくる源が「自力のこころ」だ。
しかし親鸞の「かたし」は「第18願の意味空間」にあるimpossibleだった。人間には絶対達成することのできない世界なのだ。この「絶対に達成することのできない」という悲願で、「自力のこころ」を殺して下さる。お前にはimpossibleだと断絶して下さる。
「自力のこころ」は、それが自分に出来る可能性があればやってみよう、もし難しいことならばやめておこうという計算のこころだ。だから、自分に出来そうもないことなら、やめてしまうのだ。
ところが、どんなに難しいことでもやってみたい、それをやり通すぞと頑張るのも「自力のこころ」だ。それも尊いことだ。どんなに困難なことだと思えても、それでも自分は突き進むという決意がなければ、何事もなし遂げられない。しかし、やり通すぞという決意も、難しいからやめてしまおうという計算も、ともに「自力のこころ」の意味空間内のことだとは知っていなければならない。
どんなに難しいことでもやり通すぞというのは、ちょうど太陽に向かって突き進もうとするのに似ている。太陽に向かって突き進もうしている限り、difficultだ。ところが、その太陽に向かって突き進もうとする翼がもぎ取られ、太陽に背を向けたならimpossibleに変わる。太陽に背を向ければ、背中には太陽の温もりが感じ取れる。impossibleの温もりだ。
親鸞のトラップと言ったが、果たして親鸞がそこまでのことを分かっていて、この和讃を作ったものかどうかは分からない。これは親鸞の表現を受け取った私が、阿弥陀さんと対話するなかから生まれてきたことだからだ。
まあそこから見えてきた世界は、親鸞が「かたし、かたし」とおっしゃる言葉を聞いて救われていく世界だった。私には絶対に不可能だぞと阿弥陀さんが直々におっしゃるのだから、「信ずること」など、端から出来なくてよかったのだ。そうやって広々とした悲愛の世界に出させて下さるのだ。
この親鸞の「かたし」という言葉を見たとき、どう感ずるかだけだ。絶望感で受け止めるか、それとも救いの言葉として受け止めるか。それこそ「面々のおんはからい」なのだ。