第5回 秋葉原親鸞講座(第4回2024.7.17)感想・質問への応答〔武田定光〕2024/8/21
1、北陸地方を「真宗王国」と表現します。蓮如上人が吉崎を拠点に布教した要因が大きいのでしょうか。その他に真宗ならではの要因はあるのでしょうか。本日のテーマとはズレた質問でしょうが、正月から能登地震のニュースに接する内に疑問がわいてきた次第です。本日もありがとうございました。
武田→ 私も詳しくは分かりませんが、『教団の歩み‐真宗大谷派教団史‐』(東本願寺出版1986年)には、「覚如・存覚(ぞんかく)父子の地方巡錫をはじめ、本願寺は地方門徒の教化に尽力した。『存覚袖日記(ぞんかくそでにっき)』によっても、その業績は十分うかがえるし、綽如(第五世)の越中、越前における教団拠点(瑞泉寺・超勝寺・本覚寺)の確立、第六世・巧如・存如の門徒教化の実践など、その活躍は無視できない。このように沈滞といわれたこの時代に、蓮如の立つべき舞台が着々と準備されてきたといえる。」とあります。やはり、蓮如上人以前にも、真宗の教線が形成されつつあり、蓮如さんを待って、初めて花開いたものでしょう。 何と言っても、教団の組織化(寄り合い談合の勧め)と『御文』という伝道ツールを生み出したことに尽きるかもしれません。蓮如は門徒に向けて八十通以上の『御文』を書いています。これは、門徒が読むものではなく、「聞く文学」です。『御文』を読めるひとは、それなりの方だと思います。門徒の代表格の方々でしょう。一般門徒は、その方が読まれる『御文』を聞くのです。その声は代表格のひとのものであっても、その響きは、いまここで、まさに蓮如上人が語られているように聞こえてきたに違いありません。蓮如上人が、私のために、直々に説法されている臨場感に満たされたことだと思います。
この伝道ツールさえあれば、わざわざ蓮如上人自身が、そこへ身を運ばなくてもよいのです。『御文』が蓮如上人自身のはたらきをするのです。これが北陸の津々浦々まで真宗が伝播した、底力だと思います。
以前、五木寛之さんが、「法然は難しいことを易しく、親鸞は易しいことを深く、蓮如は深いものを広く」と表現されましたね。これは三人をうまく言い当てた表現だと思います。浄土真宗は「親鸞宗」ではなく、「蓮如宗」だと評されるのも無理からぬことでしょう。
「その他に真宗ならではの要因はあるのでしょうか。」というお尋ねですが、これは気候風土にも関係しているのではないかとも言われます。親鸞が二十年間暮らした、北関東には、ほとんど「教えとしての真宗」が残っていないのに比べて、北陸はいまだに「真宗大国」と呼ばれるほどに、「真宗」が根付いています。私が知っている先達たちも、ほとんどが日本海側の出身です。北陸を含む日本海側は、厳しい気候ですね。冬期は数カ月、雪で閉ざされ、鉛のような雲が空を覆う季節が長いです。この暗い季節こそが、信仰を求めさせるのではないか、とも言われます。闇の中にあってこそ、光を求めるこころも生まれるのでしょう。それに比べて、太平洋側は晴天が多く、気候も温暖であることが、逆に信仰を求めるこころが起こりにくいというのです。まあ、これも「一理ある」程度の話です。
2,
A、アミダに生かされているというのはわかったが、それはお経のどこに書かれているのか。勉強したいので教えてください。
B、真宗で、浄土ではなく地獄へ行く人はどんな人なのか。教えてください。
C、真宗会館は、なぜ都心ではなくあんなに遠いところにあるのか。真宗お東の内輪揉めについては大体わかっています。宗教的な質問ではないですが、よろしくお願いします。
武田→ Aの質問について。「アミダに生かされているというのはわかったが」という表現が、いまひとつハッキリ分かりません。貴方は「アミダに生かされている」という表現をどのようにお考えでしょうか。つまり、「阿弥陀」と「自己」の関係をどのようにお考えでしょうか。「アミダに生かされている」と言うときの、「阿弥陀」とはいかなるものをイメージしているのでしょうか。「問いの中に答えあり」というのが〈真・宗〉ですから、自己言及の問い方の中に、問題の核心があるのです。
親鸞聖人は、『唯信鈔文意』(聖典①p554②p679)で、次のように言われます。
「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。」と。この「如来」とは「阿弥陀さん」のことであって、この如来は「微塵世界にみちみちたまえり」と言われるのですから、あらゆるところに遍満し、あらゆるものに浸透しているという意味です。つまり、目にするものすべてが「阿弥陀さん」という意味です。これは事物ばかりではなく、私たちのこころも、すべて「阿弥陀さん」なんだというわけです。これが「絶対他力」です。
こうなると「アミダに生かされている」を「自分が阿弥陀さんに往かされている」と言ってもいいですが、その「自分」も「阿弥陀」なんですから、「阿弥陀が阿弥陀を生かしている」と言ってもよいでしょう。どこにも「自己」という実体が無くなることが「絶対他力」ですから、「生かすもの無くして生かされている」わけです。
しかし、「生かされている」と受け身形で表現するとことに、「自己」が誕生します。親鸞が感受したこの「受動性」を、「如来回向」という言葉で表現していきます。
私の実感を言えば、「生かされる」という表現は、事実を正確に表現していないように思います。事実に則して表現すれば、「生きるように、させられている」という表現になります。「生かされる」という表現には、まだ恩寵主義的な残滓があるように感じます。
つまり、正確に言えば、「生きる」ということは、「生きる」という苦悩を背負わされている被害者というニュアンスです。「生きる」ことの表面を削り取って、本質を覗けば、「四苦八苦」以外にないからです。私たちは、「被害者」として誕生してくるのです。
最初の、「アミダに生かされているというのはわかったが、それはお経のどこに書かれているのか。」という問題ですが、直接、そのように表現されている「お経」はないと思います。まあ、「お経」だからと言って、〈真実〉をすべて表現しているわけではありません。『歎異抄』(後序)にも、こうあります。「おおよそ聖教には、真実権仮ともにあいまじわりそうろうなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちいるこそ、聖人の御本意にてそうらえ。」(聖典①p640②p783)と。「お経」にも、〈真実〉のフォルムに合致しているところもあるし、そうではないところもあるのだから、合致している部分を採用し、そうではない部分は、放置して採用しなければよいというのが親鸞聖人のお考えだと言います。
この受け取り方は、親鸞聖人が『教行信証』を書かれたときの手法そのものです。しかし、そうなると、いくらでも解釈者の好き勝手になってしまい、それが〈真実〉であるかどうかが分からなくなるという危険性も感じられるでしょう。親鸞聖人も、そうお考えだったと思います。それで、何を〈真実〉とするかというルールを立てました。それが、「いつでも、どこでも、誰でも」というルールです。「いつでも成り立つ信仰、どこでも成り立つ信仰、誰でもなり立つ信仰、それ以外は〈真実〉の信仰ではない」というルールです。これも親鸞聖人が、直接おっしゃってはいません。ただ親鸞聖人が、『教行信証』を作成したときのやり方を逆算すると、そういうことが言えるのではないかという私の考えです。
「〈真実〉のルール」が和讃(曇鸞讃)に見えます。(聖典①p493②p595)
<第二十六首>
如来清浄本願の 無生の生なりければ 本則三三の品なれど 一二もかわることぞなき
「私たちには本願が誓われているのだから、衆生つまり、われわれ人間は、もともと「無生の生」であり無実体だから、「九品(人間の属性)」と言われるが、本質は誰でも同じなのです。(ここに「誰でも性」が確保されている)」
<第二十七首>
無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまう
「無碍光如来の本名である南無阿弥陀仏と、阿弥陀さんの光明は、真っ暗闇のような人生を破って、私たちの本当の願いを満足させて下さるのです。(光明・名号が届ける「誰でも性」の確保)」
<第二十八首>
不如実修行といえること 鸞師釈してのたまわく 一者信心あつからず 若存若亡するゆえに
「そうであるのに、〈真実〉でない修行の躓きを曇鸞大師は、こう言われています。一つには、信心が純粋ではないから、ある時には「〈真実〉の信仰だ」と思えるが、また「ある時は不実な信心だ」と思ってしまうのです。(純粋か不純か→「いつでも性」・「誰でも性」の確保)」
<第二十九首>
二者信心一ならず 決定なきゆえなれば 三者信心相続せず 余念間故とのべたまう
「二つには、そのように信心が揺れてしまうのは、決定的な決断がないからです。三つには、信心が継続しないのは、いろいろな思いに乱されてしまうからです、と述べられています。(「いつでも性」・「誰でも性」・「どこでも性」の確保)」
<第三十首>
三信展転相成す 行者こころをとどむべし 信心あつからざるゆえに 決定の信なかりけり
「以上のことは、三信(淳心・一心・相続心と三不信(不淳心・不一心・不相続心)が織りなすことです。行者よ、注意深くありなさい。信が不純だから、信が決まらないのです。(信心不純→不決定)(誰でも性の確保)」
<第三十一首> │
決定の信なきゆえに 念相続せざるなり 念相続せざるゆえ 決定の信をえざるなり
「信が決まらないから、思いがいつでも継続しないのです。そして思いが継続しないから、信が決定的にはならないのです。
(不決定→念不相続→念不相続→不決定)(誰でも性の確保)」
<第三十二首>
決定の信をえざるゆえ 信心不淳とのべたまう 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり
「決定的な信にならないから、信心が不純なのです。「真実に適った行い(行)」とは、絶対他力の信仰ひとつに収まるのです。 (不決定→信心不純)結論は、真実の「行」とは、如来回向の真実の「信」以外にはないのです。(誰でも性の確保)」
再度、「アミダに生かされているというのはわかったが、それはお経のどこに書かれているのか。」という問題に立ち戻って、『大経』を見れば、「もろもろの庶類のために請せざる友と作(な)る。群生を荷負して重坦とす。」(『仏説無量寿経』聖典①p6②p6)が、それに当たるでしょうか。現代語訳だと、「さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく」(『浄土真宗聖典 浄土三部経ー現代語版ー』本願寺出版社)となりますが、主語は「阿弥陀」ではありません。「菩薩」、それも「大乗の菩薩」が主語ですから、直接、「アミダに生かされている」とは言い切れません。しかし、この『大経』の言葉を、真宗門徒は、阿弥陀さん(正しくは「法蔵菩薩」)と読み換えて受け止めてきました。それで曽我量深先生も、「我々は、法蔵菩薩のご修行を裏からさせてもらっているようなもの」とおっしゃったのでしょう。私たちが「生かされる」ということも、法蔵菩薩の御修行だと受け止めておられたのです。
B、真宗で、浄土ではなく地獄へ行く人はどんな人なのか。教えてください。
この質問も、まず貴方が「浄土」と「地獄」をどのように考えているかによって、答え方が違ってきます。親鸞聖人は、「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(『歎異抄』第二条・聖典①p627②p768)とおっしゃっています。
親鸞聖人は、「浄土」が「都合のよい場所」、「地獄」は「都合の悪い場所」と決めているのであれば、それは「損得勘定」であって、〈真実〉の信仰ではないと見抜いているのです。つまり、損得勘定で受け取る限り、「浄土」と言おうが、「地獄」と言おうが、そんなものは、すべて「娑婆の話」だと。どんな修行でも、適わない自分であるから、自分の居場所は、「地獄」以外にないのだと言うのです。
あなたの問いに、そのままのレベルでお答えするならば、「地獄へ行く人」とは、自分を置いて他にはないということになります。
C、真宗会館は、なぜ都心ではなくあんなに遠いところにあるのか。
「あんなに遠いところ」とおっしゃいますが、真宗会館の近くにお住まいのかたは、こんなに近くに来てくれた助かりますとおっしゃるでしょう。「遠い」と「近い」というのも、自分の居場所の都合から言っているだけのことであって、相対的なものです。
まあ、私も江東区在住ですから、「浅草」に比べれば遠いので、「遠いな」とは感じますが、それも当時の状況を思えば、これもやむなしと思っております。このことについて、直接のお答えになるかどうかは分かりませんが、別紙を作りましたので、それをご覧下さい。このれは、因速寺のブログにも載せましたし、もうじき出版される『〈真実〉のデッサン7』にも載せますが、その部分のみを抜き刷りでご紹介します。これは教学館第九期の特別講義で横浜組の橋本正博前住職にお話いただいたものを元にした聞書です。いわゆる「お東さん騒動」の渦中におられた住職さんのお話です。
「教団問題」について 武田定光(2024年8月21日)
【サブタイトル「ご恩感謝を言わせない阿弥陀さん」】(『〈真実〉のデッサン7』所収)
「昨日(2024/06/11)の「教学館特別講義」では、橋本正博先生(横浜市・智廣寺)に「教団問題」についてお話を頂いた。一九六九年四月に起こった「開申事件」に端を発した、いわゆる「お東さん騒動」は、約十年の歳月を経て、ようやく終息した。そのときの当事者である橋本さんに、この十年間を振り返り、お話を頂いた。
「開申」とは、従来、教団の頂点に居られた、「ご法主」が、「管長職」を長男・光紹氏に譲るという達しだ。従来、「①法主(宗教的権威)・②真宗大谷派管長・③住職(本願寺代表役員)」という立場を「ご法主」一人が担ってきたので、俗に「三位一体」と呼ばれてきた。「ご法主」は、その内の「管長職」のみを譲ると言い出した。それだけであれば、大した問題にもならなかったかも知れない。その後、「真宗大谷派」から「本願寺」を独立させると言い出したことで、大騒ぎになった。そればかりでなく、「本願寺代表役員」という立場を利用して、本願寺の土地を抵当に借金をしていることも判明する。
大谷派は、「内局と法主」で出来上がっていた。譬えて言えば、日本国における、「内閣(政府)と天皇」のような関係だ。「内局」のトップ、つまり「総理大臣」のような立場が「宗務総長」であり、当時は訓覇信雄氏が「総長」だった。彼は、高光大船師などの念仏者を先達として仰ぎ、「信心社」という信仰集団を結成(一九四八年)するほどの、筋金入りの「信心の行者」だった。そして昭和三十七年に、いわゆる「同朋会運動」を創始した。
その後、「法主」の長男・光照氏が住職だった「浅草本願寺」が、宗派からの独立を表明し、それに連なるようにして、富山別院・井波別院、名古屋別院、福井別院も離脱を決議した。その年の、京都本山・本願寺で行われた報恩講が「分裂報恩講」と呼ばれるようになった。それは、内局側が本山を警備し、そこに法主側を境内には入れないという異例の事態が起こった。橋本さんも、警備要員として、夜行バスで京都まで駆け付けたと語られていた。
その後、宗門全体が動揺し、各地方でもさまざまな軋轢を生んだ。東京教区でも、新門(法主の後継者・長男・光照)を擁護する僧侶集団と、内局を指示する集団との対立が生まれた。結果的には、「浅草本願寺」は宗派から離脱し、現在に至っている。
一九八〇年(昭和五十五年)に、「法主」が作った借財を宗派がすべて引き受けるという条件で、「即決和解」が成立し、紛争の終結をみた。その後、宗憲の改正が行われ、「宗派と本山は一体である」という「宗本一体」、また、決議決定システムを「同朋公議」と定めた。
しかし、「法主」を擁護する僧侶たちは、「法主」と歩調を合わせようと、宗派からの離脱を表明し、実際に多くの寺院が離脱をした。
いまから振り返ってみると、そのときの当事者は何を護ろうとして戦っていたのだろうか。まだ「教区」という意識も薄く、もちろん「教化委員会」などという組織もない中で、一般的な、いわゆる「ノンポリ僧侶」は騒動によって右往左往していたように記憶している。当時の末寺には、情報源が少なかった。有力な情報源は、「親類寺院」だった。ご存じのように、結婚・入寺は寺族間同士が、ほぼ百%だったから、根も絡み合うように、寺院同士が「親戚関係」にならざるを得なかった。親戚も確実な情報は掴んでおらず、いわゆる「フェイク情報」を真実の如くに伝え合っていた。私も耳にしたのは、「内局の法改正により、総長の気に入らない住職は、首をすげ替えられるようになるらしい。これは大変なことになるぞ」だ。確かに宗憲では、住職は宗務総長名で任命されるのだから、間違いとまでは言えないが、そのようなことが実際に行われたことはない。「法主」擁護派の僧侶たちにとって内局派は、宗教的権威を傷つけるものだと思われたのだろう。橋本さんも言われていたが、「法主」擁護派のひとびとから、我々は「あいつらは赤だ!」と非難されたと言う。つまり、共産主義者だとレッテルを貼られたらしい。表面上は、僧侶で宗教活動はしていても、本心は共産主義を扇動する集団だと思われたのだろう。そんなことは、まったくないのだが、当時は、まだまだ東西冷戦時代でもあり、世界的にも自由主義と社会主義が対立した構図になっていたのだから、それも仕方がないと言えば、仕方のない反応だったのだろう。
橋本さんが、最後に言われていたが、「当時の離脱されたかたがたも、我々も真面目に考えてのことだったのだと思います。しかし、それでは、なぜ我々は大谷派に残っているのでしょうか」と。まさに、そのことが問われなければならないことなのだ。
これは天皇制にも言えることだが、政治にも宗教にも「権威」は大切だが、「権威」が「権力」と結びつくことの問題性を、「お東さん騒動」は提起していたのではないか。これは突き詰めてみれば、自己自身の「拠り所」の問題である。天皇や法主を「拠り所」とするか、あるいは、宗門という「共同幻想」を「拠り所」とするか。それであれば、両方とも「阿弥陀さん」を「拠り所」とはしていないことになる。
かつての仏教は、「釈迦」というスーパーヒーローを「拠り所」として成り立っていた。しかし、それでは「平等の救い」にはならないと、法然・親鸞は「阿弥陀さん」という救済原理を「拠り所」にした。しかし、それでもまだ問題は片付かなかった。それは対象を、「釈迦」にするか、「阿弥陀さん」にするかの違いであって、「権威」に依存する我々の体質は変わっていない。つまり、「権威」を自己以外に立ててしまえば、その「権威」によって自己は圧迫されてしまう。「権威」が知らず知らずのうちに、自己を圧迫する「権力」へと変質する。むしろ我々が「権威」を外に欲し、跪くことによって、自己自身を「権威」の奴隷として位置づけたかったのだろう。
問題は外にあるのではなく、自己自身の内側にあったのだ。
私も「なぜ自分は大谷派にいるのか」を問うてみた。そう問うてみれば、自分は、やはり、〈真・宗〉という教えに出会わせて頂いた師友への恩を感じずにはいられない。それを「教恩」と言ったりする。「教恩」がベースにあって、「教団への恩」へとつながっていく。一応、そのように言えるのだが、それは「一応」のことである。煎じ詰めれば、「教団」と言っても「共同幻想」であり、そんなものは実体としてどこにもない。確かに、間違いのないものは、〈一人一世界〉である。
つまり、自分が「いま、ここに有る」ということの意味が充分に満たされていなければ、「恩」などは感じられないのだ。橋本さんのお話を聞いた後に、みんなで座談会をした。そのとき、あるひとは、「大谷派は、報恩講教団だと言うけれども、恩を感じられない」と言った。あるひとは「先輩たちにお世話になってきたとか、お寺のお仏飯で育てられたとか、確かにそうなんだけれども、それが御恩なんだろうか」と。
それを聞いて私は、「そこにご恩を感じさせないものがはたらいているのではないかな」と発言した。我々が感じることのできる「ご恩」とは、メリットと結びついている。そしてメリットを数え上げれば、思い当たることも数々あるに違いない。しかし、それが果たして「ご恩」と言えるのだろうかと揺さぶってくるものがある。これが「阿弥陀さんの揺さぶり」なのではなかろうか。この揺さぶりを、親鸞も受けたものだから、「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」とか、「小慈小悲もなき身にて」(「愚禿悲嘆述懐和讃」・聖典①p509②p622)と表白せざるを得なかったのではないか。
だから、素直に「ご恩に感謝いたします」と言えないのは、自分の側に問題があるのではなく、阿弥陀さんがそう言わせないようにはたらいているということなのだ。
突き詰めれば、自分が「いま、ここに有る」ということの意味を、自己が理解することはできないということだ。自己が理解できることは、自己と同等か自己以下のものだけである。
でも、「理解することはできない」ということは、自己が劣等だからとか、努力不足ということではない。阿弥陀さんが、理解しようとする手を打ち砕いてしまうということなのだ。そうなると、自分にとっての「いま・ここ・私」というものは、「永遠の不可知」として甦ってくる。それを私は「〈存在の零度〉」と呼んでいる。自分の把握している「時間」も、「空間」も、そして「自己」も、それらを「幻想」として暴き出し、把握しようとする力を解き放ってしまう。解き放たれてみれば、目の前の光景は、原始未開以外の何ものでもない。
原始未開の空気を吸って、ようやく自分は、「一切衆生としての自己」へと着地することができる。やはり、「ご恩に感謝します」などと平気な顔で言えなくさせられることが、阿弥陀さんの「ご恩」ということなのだろう。なぜならば、「ご恩」とは、「もう済んだ」ことに対する感情だからだ。阿弥陀さんは、つねに〈いま〉にしか居られない。「もう済んだ」ところには居られないのだ。
追記:浅草本願寺が、東京別院であった頃、その境内に教務所や教区会館が建っていた。ところが、浅草本願寺が包括関係を結んでいた「真宗大谷派」から離脱したことで、境内にあった教務所・教区会館が立ち退き要求をされた。ちょうど、その当時は、バブル絶頂期だったこともあり、土地の値段が一夜にして巨額に変動していた。
当時の内局や教区人たちは、悪戦苦闘しながら土地を探した。もちろん、都心を環状に走っている山手線の内側でと考えた。ところが、さまざまな交渉を重ねたが、教団の資金で手を出せる土地はなかった。それで、ようやく見い出した土地が、現在、「真宗会館」の建っている土地ということになる。
この「真宗会館」の「遠さ」を、悪戦苦闘した教区人の御苦労だと感じ取れれば、「遠さ」も一入のことだと思われる。
3、「阿弥陀さんの揺さぶり」とは何でしょうか?
武田→ これが一番明確に表現されている箇所は、『歎異抄』第九条の唯円の憂鬱です。唯円房は、親鸞聖人に、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれ」たとあります。
つまり、「念仏を称えても、喜びが感じられなくなったのはどうしてですか?また、浄土へ参りたいという気持ちのおこらないのはどういうことですか?これをどう考えたらよいでしょうか」と不安になっています。しかし、親鸞聖人は、「親鸞もこの不審(ふしん)ありつるに、唯円房(ゆいえんぼう)おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)とおおせられたることなれば、他力(たりき)の悲願(ひがん)は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と答えています。
念仏を称えても嬉しい気持ちにならないことは、煩悩が、そうしていることであり、この煩悩の者を助けるために阿弥陀さんの悲願が投げかけられているのだから、たのもしいのだと親鸞聖人は展開します。「煩悩の所為」と言っていますが、煩悩も他力の中にあるのですから、これも阿弥陀さんがはたらいていることの証拠です。ここまで親鸞聖人は説明していませんが、突き詰めれば、そういうことです。つまり、唯円が憂鬱になり、不安になるのもすべて阿弥陀さんが、唯円を揺さぶっているのです。それで親鸞聖人は「たのもしい」と受け止めますが、唯円は、「たのもしい」とは思えないのです。それは煩悩を起こせるのも、やめるのも自分次第だと思っているからです。
だから唯円は、不安になり憂鬱になる原因を自己責任と考えてしまうのです。ところが親鸞聖人は、すべてが阿弥陀さんのはたらきだと思っていますから、それは自己責任ではなく、阿弥陀さんの揺さぶりだと受け止めています。それが「たのもしい」という表現を生み出します。
それを敷衍すれば、我々の日常生活における、不安や憂鬱、そして感情の動きも、すべてが阿弥陀さんの揺さぶりということになります。妙好人と私が頂いている山崎ヨンさんの「不安は私のいのちやもん」が、それを反証していますね。(参照『生命(いのち)の大地に根を下ろし』樹心社)
4、 本日も有難うございました。真宗会館の教学館に参加してよいものか迷いますが、日中で参加しづらい時間帯ではありますが、都合をつけて一回でも二回でも参加したいと思っています。因速寺の写経にも是非参加してみたいです。何も用意するものはありませんか。何でも厚かましく参加させていただきたいです。
武田→ 「この世を生きるは、我一人のみ」です。それも同じことの繰り返しのない、一回限りの人生です。その時、どう選択するかは、貴方次第です。そこに遠慮があるということは、まだ余裕があるのでしょう。余裕がなくなれば、取るものも取りあえず、何はさておき、というこころが動きます。「後生の一大事」とは、余裕のなくなった、いま・ここ・私が剥き出しになる場所です。まあ、「面々の御はからい」(歎異抄第二条)です。
5、 貴重なお話をありがとうございました。勉強不足であり、正直、全てを理解はできませんでしたが、感じることは出来た、そう思っております。「一人一世界」、死者差別、死が悪い。幼くして姪を亡くしましたが、この言葉に救われた気がします。
武田→ どこまで行っても、人間の住んでいる世界は、〈一人一世界〉です。決して、私たち、生者が暮らす世界は一つではありません。一つだと見えるのは、「自分の眼」が、全宇宙でたった一つで、尊いものだということを忘れているからです。私の見ている光景は、宇宙でただ一つの奇跡的な光景なのです。世界にはたくさんのひとが暮らしているという見方は、大雑把な見方であり、「自分の眼」が相対化されてしまいます。つまり、自分一人くらい居なくても、この世界は何もかわらないだろうという考え方に傾斜し易いです。まあ私たちが「常識」としている、この見方を私は、「一世界全人類包摂世界観(いちせかいぜんじんるいほうせつせかいかん)」と呼んでいます。長いので「一全世界(いちぜんせかい)」と呼びます。この考え方は、「モノサシ」で、何でも計る世界です。この「モノサシ」を当てはめて、40歳で亡くなったひとは可哀相だが、90歳で亡くなったひとは、そうでもないという感覚です。これはひとの一生を「長さ」という「モノサシ」で計ったところから生まれます。この「比べる煩悩」を「慢(まん)」と呼びます。人間は比べて喜ぶ生き物ですが、同時に、比べて悲しむ生き物でもあります。それは「慢」という煩悩に操られているだけなのです。「慢」をなくすことはできませんが、「慢」の発生原理を知ると、「慢」に騙されなくなるのです。
私の大好きな、ユクスキュル(動物学者)の言葉があります。
「世界が客観的にたった一つだ」というのは「妄想」であり、「この妄想は世界というものは、ただ一つしか存在しないもので、その中にあらゆる生物主体が一様にはめこまれているという信仰によって培われている。ここからすべての生物に対して、ただ一つの空間と時間しか存在しないはずだという、ごく一般的な確信が生まれてくる」(『生物から見た世界』思索社)
彼は、人間の眼は「妄想」であると、生物たちから教えられたのでしょう。〈真実〉は、〈一人一世界〉なのだと。
6、質問のレジメ p.4-③ 真宗は成熟した一神教の「成熟」の意味を、講義レジメの p.2-5 [(法)の教え][(人)説く]にわかれる二尊教の形をとることで成熟した ⇒ 健康性を生んだ という形でとらえましたが大丈夫でしょうか?
武田→ 私は、〈真・宗〉を「成熟した一神教」などと呼んでいます。「成熟した一神教」の原理は、「①唯一性、②反問性、③脱人格性」です。
A、唯一性→このこと一つという視座を与えるもの。〈真・宗〉という「視座」が成り立つ。
この唯一の視座が開かれることで、世界がすべて、そこへ包摂される。そして、世界が包摂されることにより、世界のすべてが、〈真・宗〉を表現するための手段に変化する。私は、それを「方便化する」と呼んでいます。
本尊を「阿弥陀如来立像」以外を安置しないことで、唯一性を確保した。
ただし、「阿弥陀如来立像」も、あくまで「南無阿弥陀仏」という言葉の意味世界から生まれた偶像です。ですから、「阿弥陀如来」が、先に有るのでは無く、どこまでも、「南無阿弥陀仏」が先にあるのです。
B、反問性→人間の出す結論を問い返し、永遠に答えを与えない。これが阿弥陀さんの生きたはたらきである。「必至滅度(ひっしめつど)」の「必至」というはたらき。
人間は、「固定観念」を作ることで問題解決をしようとするが、その「固定観念」を、それは〈真実〉かと問い返すことで、「固定観念」への執着から解放する。
C、脱人格性→『聖書』に出てくる「神」が「人格神」なのに対して、「阿弥陀さん」は「脱人格性」である。「脱人格性」とは、「救いの法」を伝えるための「物語的(ナラティブ)」表現である。だから、『聖書』の説く「神」のように「人間的で」はないし、「この世の成り立ちを説明する原理」でもない。あくまでも、「阿弥陀さん」は「救い」を人間にもたらすための「物語的表現」に過ぎない。なぜ、「物語」的な表現をするのかと言えば、それは私たちが「物語的存在」だからです。これはケレニー(神話学者)の言う「基礎づけ」のためです。「物語は物事の説明ではなく、物事を基礎づける」と言っているそうです。自分が自分として、「いま・ここ」にあることの意味が基礎づけられる。それは固定化のイメージではなく、「無いことが有ることを基礎づける」という形の基礎づけである。→「自己の像」は「ドーナツ」である。
また、河合隼雄先生は、「物語というものはつなぐ力をもっている」とも言っています。これは「基礎づけ」のための語りでしょう。阿弥陀物語はイメージです。「彼(ユング)はイメージは生命力をもつが明確さにかけ、概念の方は明確ではあるが生命力に欠けるという意味のことを述べている。」(河合隼雄『イメージの世界』)
「イメージ」は物語によって「基礎づける」手法、概念は「説明」の手法です。
「基礎づけ」が、「いつか、どこか、誰か」に限定されてしまえば、「基礎づけ」にはならない。「いつでも、どこでも、誰でも」が確保されたときに、「基礎づけ」となる。