血も涙もないわけではないが、血も涙もあるわけでもない

 若い女性が、突然、伴侶を亡くした。お通夜、お葬式では親戚や友人が集まり、気丈に振る舞っていた。しかし、お葬式が終わり、花入れ式になり、伴侶が花に埋もれている姿を見て、棺に取りすがり号泣した。肉親も彼女を宥めることもできず、傍観していた。それでも現実には、火葬場の予定時間があり、肉身と係の者に慰められ、棺の蓋が閉められた。
 火葬場には車で、二十分ほどで着いた。火葬場でも、最後のお別れだと職員が棺の蓋を開けて対面させる。そこでも彼女は、彼の顔に触れ、涙を流した。ここでも肉親が彼女の肩を抱き、何とか棺の蓋を閉め、お釜の中へ棺が贈られ、扉が閉められた。彼女は、泣き崩れるのではないかと思うほどフラフラしていて、肉親が支えなければ立っていられないほどだった。
 係の者は、収骨までの待ち時間を事務的に告げ、我々は待機所に入った。とうにお昼は過ぎていたので、会葬者はテーブルに置かれているお菓子やおにぎりを口にしていた。彼女は悲しさのあまり、ここのところほとんどご飯を口にできていなかったそうだ。
 それでも、友人や知人が、わざわざ火葬場までお焼香に来てくれたのだから、と挨拶に回っていた。友人たちがいるテーブルで彼女は座った。そして昔話などに花を咲かせていた。あれほど号泣し、悲しみの底にあったはずの彼女だが、友人たちとの思い出話をしながら、何と、ケラケラと笑っているではないか。私は面食らった。
 人間は悲しみのどん底にあっても、笑うということのできる生き物なのか。彼女自身もそのことに違和感を感じていたのかもしれない。私のところに挨拶に来たとき、「こんなときでも、お腹って減るものなんですね」と、ボソッと言った。これは、人間が悲しみの底にいるときは、悲しみでいっぱいになり、とても自分の空腹を満たそうなどという欲は起こってこないはずだと思っていたが、そうではなかったことに気付いたのだ。
 ということは、人間には、自分を丸ごと差し出すことのできる愛情は持ち合わせていない、ということだろう。丸ごと差し出せるのであれば、とても空腹などは感じないはずだ。自分はいま悲しみのどん底にあるのだから、悲しみと身体は同じように動かなければダメだ。悲しみに打ちのめされているのだから、お腹が空くなどという身勝手で下品な欲を起こしてはダメだ。
 彼女は、そう思っていたのかも知れない。しかし、その思いとは裏腹に、身体は空腹を訴える。
 こころというものも面白いもので、友人とケラレラ笑い合うこともできるのだ。また、伴侶の顔を見たり、伴侶との思い出が湧き上がってきたときには、悲しみがやってくる。こころは、二十四時間、悲しんでいるはずなのに、二十四時間は悲しむことができない。ある時には悲しみ、あるときには悲しみを忘れている。
 そんなことを繰り返しながら、彼女は「日常」を取り戻していくのだろう。
 人間の「愛」を、〈真・宗〉は、「貪愛」と言う。そんなことは言わなくてもよいことなのだが、「貪りの愛」と言う。人間は「愛」とは、純粋なものだと思いたいのだ。ところが、「こんなときでも、お腹が減るもの」なのだ。つまり、自分が一番大切な生き物なのだ。この「不純な愛」を元にして、他者と関係を結んでいるのが人間という生き物だ。
 安田理深先生は、「夫は夫自身を愛するために妻を愛し、妻は妻自身を愛するために夫を愛す」と述べていた。これは身も蓋もない話だが、〈真理〉が語られている。ひとは、自分自身の「貪愛」を満たすため以外に他者と関わることができない。しかし、そう言われると、〈真理〉は、血も涙もないもののように感じてしまう。
 安田理深先生は、こうも言っている。
「仏智とは血も涙もないということではないが、しかし血も涙もあるというものでもない。そこに一点の人間的残滓もないものである。だからこそ、人間を根底的に明らかにし得るのである。信仰は無漏の無漏たるところである。血も涙もない冷たいものでもなく、また温かいものでもない。そういう知恵が与えられることによって、冷たいコトと温かいこととの間に動揺している人間が、初めて独立することができるのである。」(『安田理深選集』第10巻p129)
 この「血も涙もないということではないが、しかし血も涙もあるというものでもない。」というフレーズが好きだ。〈真理〉とは、一見すると「血も涙もないもの」のように感じてしまう。完膚なきまでに人間の固定観念を解体してしまうから、夢を見ることができない。確かにそうだ。しかし、その解体された底から、「血も涙もないということではない」が甦ってくる。これは「慈悲」の側面だ。〈真理〉は、「智慧」と「慈悲」でできあがっているから、両面のはたらきがある。「血も涙もあるというものでもない」は「智慧」を、「血も涙もないということでもない」は「慈悲」を。
 真か偽かを切り裂く、一点の濁りもない鋭い剣の切っ先のような「智慧」と、どれほど濁りがあろうとも、それと一心同体になろうとする「慈悲」とで出来上がっているのが〈真・宗〉だ。
 安田先生が言う、「一点の人間的残滓もないもの」だけが、人間を真に「救う」のだ。