これは皆さんも経験していることだと思う。本を読んでいて、或る表現や言葉が深くこころに届くことがある。その時は、それなりに感動しているのだが、それがこころの深層にまで届くには時間がかかるようだ。だいぶ後になってから、「あの表現は素晴らしかったな」とか、「あの言葉をメモしておけばよかったな」などと後悔する。そして、その表現や言葉を探すのだが、それが、なかなか見つからない。
つまり、その表現や言葉と、初めて出会ったときには、それなりの感動があっても、それが深層にまで達してくるには時間を要するのだろう。具体的には、私にとって、安田理深先生の、この表現が、それに当たる。
「いかに大問題といっても、心のことである。人というも心、自分というも心で、仏というも衆生というもみな心である。だから心よりも小さく、またこれより大なるものはない。」(『安田理深選集 第九巻p58)
この表現に出会ったとき、へーっと思ったと、同時に感動した。言われるまでは、「そんなことは分かっている」と思っていたのだが、いざ、そのように表現されてみると、更に、「その通りだ」と深く説得させられる。ここで先生がおっしゃる「心」とは、唯識で言うところの、「識」のことだ。やがて、この表現が、もっともっと重く大切なことなのだと、どんどん深奥に染みてきて説得されてくる。
先生に、そう言われてみれば、「その通り、それ以外にない」と感動している自分がある。森羅万象を眺めていても、その環境世界には、四苦八苦は存在しない。石や木や草花やカボチャや空気やマンションや雨や道路や机や鍋やペンには、四苦八苦は存在しない。「事物」に四苦八苦はない。
四苦八苦があるのは「心」に於いてである。「心」と言えば、すぐに「唯心論じゃないか」と邪推するひとも現れる。そう邪推するひとは、「物と心」が別々にあると思っているひとだ。先生がおっしゃるのは、「すべては心以外には、無い」という意味世界だ。まあ、「心」という文字には手垢がべったりと張り付いているので、この文字を見た途端に、「心」という言葉の意味が分かってしまう。まあ、世間話程度の意味で「心」という文字を使うのならば、それでもよいが、「厳密」な意味で言えば、「心」とは摩訶不思議なものであって、いまだに自分には完全に知ることの出来ない何かなのである。
だから、「心」に振り回されることもある。「心」なんだから、自分の好き勝手にコントロールできるかと言えば、そんなことは、まったくない。だから、「大問題」である。〈真・宗〉は、「心」の恐ろしさを知っている。「心」は自分の所有物ではないから、「心」は「心」の「必然性」によって傍若無人に振る舞う。
ベッドに寝たきりの病人の「心」は、生きていても意味がない、こんなことなら死んでしまいたいと振る舞っていた。ところが、痰が気道を塞いでしまい息苦しくて、ナースコールを押していた。病人は、自分の「心」は死にたいと振る舞っているのに、「身」は生きたいと願っていることに驚愕する。よくよく「心」は、「心」の「必然性」で、勝手気ままに振る舞うものだ。
「必然性」と書いたが、この「必然性」は「罪福信の必然性」の場合もあれば、「他力の信心の必然性」の場合もある。要するに、この「心」の「必然性」の構造を見抜ければよいのだ。構造を見抜ければ、「心」と「自分」が腑分けできる。見抜けないと、「心」の「必然性」に蹂躙されてしまう。
でも、その「自分」とは、ドーナツの穴だから、「虚空」なんだ。自分の知っている自分とは、その穴の外側の部分だけなんだ。「心」という外側の部分に、さまざまな「自分」が散在している。でも、その中核は「虚空」である。これを「物語的」に言えば、「〈真実〉の自己」と言ってよいのだろう。
安田先生の言葉に、帰ろう。「いかに大問題といっても、心のことである」。この言葉に立ち帰るとき、自分の中のわだかまりが、スーッと溶解していく感じを受ける。