布団の中で目が覚めて
やっぱり
そうか
他力だな
という歌が浮かんだ。それから次に、
目覚めとは
誕生と
同じ形だ
万劫の朝
と浮かんだ。
昨日の自分と、今朝の自分は、身体的には違っている。新陳代謝とかホメオタシス(生体恒常性)とか言われるから、違っているに違いない。それなのに、昨日の自分と今朝の自分は「同じ」だと「思っている」。同じだと思わないと、「自我」というものは崩壊してしまう。一昨日の自分と一昨昨日の自分が違っていて、365日の自分と今朝の自分が違ってしまうからだ。取り敢えず「自我」は、「この身体が自分だ」と思い込んでいる。
御釈迦さんが覚ったと言われる、「縁起の法」とは、すべては関係性で出来上がっているということだから、「自分」などという実体などどこにも「無い」という主張だ。それで「諸法無我」と言われたらしい。ところが、それに反しているのが、「我癡・我見・我慢・我愛」だと唯識は言う。「我」というものを実体的に考えることが煩悩だと言い当てた。
何も、それは「我」と考えることがよくないことだという意味ではない。そもそも、人間は「我」なしには生きられない生き物だし、「我」からすべてが始まっていると考える生き物なのだ。
でも、「我」が始発点ではなくて、「我」を「我」と感じさせているものがあると。それを唯識は、深層意識の阿頼耶識と命名したが、親鸞は「阿弥陀さん」と命名したのだろう。
だから、意図的に、目を覚ますことは不可能なのだ。阿弥陀さんに目覚ましめられて、目が覚めるという現象が起こる。これが、「この世」と関わるときの「基本形」なのだろう。「基本形」とは、事実という意味である。しかし、人間は、その「基本形」を再度取り出して、「思い」というまな板の上に乗せて調理しようとする。「すべてが阿弥陀さんの促しだとすると、犯罪もすべて阿弥陀さんの促しじゃないか」という批判調理。あるいは、「すべては阿弥陀さんの促しなんだから、あるがままでよいのだ」という自己保身調理だ。この両方の調理が起こってくる前の、原初のところにあるのが、「基本形」だ。
話は飛ぶが、私という男の胸に、なぜ乳首があるのか。女性であれば、授乳という機能があるから不自然ではないが、男の場合、生態的に、左程の機能があるとは思えない。そうなると、現状は男女という差異があるが、「基本形」は両性具有というの形態だったという推論も納得する。「基本形」は女性形ではないかとも言われている。それが、いつかの段階で、男女と分化したのだろう。そのほうが生命体として、この世に適応しやすいと「人体」は考えたからだろう。
「基本形」を憶念すると、現状が男性のひとは、不思議に女だった頃を思い出す。逆に女性のひとは、不思議に男だった頃のことを思い出すに違いない。問題は、いまある現象ではなく、もともとあった「基本形」を憶念することだろう。
「思い」というまな板に載せる前の、新鮮な素材に目を注ぐべきだろう。