第3回 秋葉原親鸞講座(2024.6.19)感想・質問への応答〔武田定光〕2024/7/17
1.お内仏(阿弥陀さんの前で)「今日一日、無事に過ごせますように…」など、私は利害損得心でしか手を合わせていないなと思いました。
先生は阿弥陀さんの前で、何を思いながら合掌しているのでしょうか?
武田→ 「阿弥陀さんの前で、何を思って合掌しているのか?」と問われてみると、色々なことを思っているとしか、答えられません。ただ貴方のように、「今日一日、無事に過ごせますように…」などとは思ったことはないように思えました。そう思ってはいけないということではありません。どんなことを思おうとよいのです。唯円は、『歎異抄』(第十三条)で、「よきこころのおこるも、宿善(しゅくぜん)のもよおすゆえなり。悪事(あくじ)のおもわれせらるるも、悪業(あくごう)のはからうゆえなり。故聖人(こしょうにん)のおおせには、「卯毛羊毛(うもうようもう)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。」と述べています。善いと思われるようなことも、また悪いと思われるようなことが起こってこようとも、それはすべて「宿業」のあらわれだと親鸞聖人は受け止めています。
それは、人間には「思う」前に、何を「思う」かが知らされていないということです。必ず、「思った後」でしか「思った内容」を知ることができないでしょう。つまり、「思う」ということも、自分の意志を超えて起こってくる「宿業」のあらわれなのです。それこそ「他力」です。
ただ、「阿弥陀さん」の前に身を据えるという形式を取ることで、自分の中では様々な「思い」が去来することを体験できます。〈真・宗〉は、「行住坐臥を問わず」ですから、何をしていてもよいのです。坐ることに特化してはいません。
親鸞聖人は「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなし」と言っていて、ここでは、「つくるつみ」と言っていますが、それは罪に限定されていません。「よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり」です。つまり、善であろうと悪であろうと、そのすべてが「宿業」の暴露です。ですから、どんな思いが去来しようとも、それは自分を超えて起こっていることだと、頂き直すべきでしょう。
いま思い出したことがあります。それは、佐藤研先生の言葉です。先生は、禅の師家であり、また聖書学の研究者でもあります。先生が坐禅をするとき、どんな形でもよいのですが、何か仏像を置いて坐禅をすると、集中力が全然違うと、おっしゃっていたのです。坐禅は本来、壁に向かうか(曹洞禅の形式)、壁に背を向けるか(臨済禅の形式)という違いはあっても、そこに仏像は起きません。佐藤先生は、敢えて仏像を置いて坐禅を組まれたのだと思います。しかし、やってみたら、仏像を置くのと置かないのではまったく集中力が違うのだとおっしゃっていました。
これは、我々、真宗が「阿弥陀さん」を前に置くことの大事さを違った角度から教えて下さったと思いました。本来、「本尊」などは置かなくてもよいのです。「十方微塵世界」に遍満しているものです。そもそも「阿弥陀さん」は、物ではありませんから、木で彫ったり、絵で描くことはできません。しかし、時空を超えた超越的な「阿弥陀さん」を、敢えて「事物」で表現するのは、我々のためだったのです。我々が「阿弥陀さん」を目の前にして存在していることを教えるための教材ではありませんか。ですから、お内仏や本堂で「阿弥陀さん」と正対するとき、私たちのこころの中では、様々な思いの去来を体験できるのです。それは「思い」すらも自分を超えた「阿弥陀さん」のはからいだと受け取るためなのです。
いわば、自分という存在は「阿弥陀さん」が、縦横無尽に展開する「装置(器)」だったのです。もっと言えば、「自分」という固定的な実体はないのです。あるのは「阿弥陀さん」だけです。これを、「自己は客体、阿弥陀さんは主体」などと表現することもあります。これが根源的な、深層の〈真実〉です。ただ、それを表層の知で受け取ってしまってはいけません。どんなことを思っても、どんなことをしても、それは「宿業」だからと、自己肯定や自己保身の論理にすり替えては駄目なのです。自己肯定が起こるのは、まず「自分」というモノが、実体的に「有る」と考えることを前提にしています。この「自己」を前提にして、この「自己」を強固なものにして安定させようという企みがあります。その企みのために、あらゆるものを「自己」に引きつけ、「自己」の土台を固めようとします。財産・地位・才能・学力・健康・名声などの材料を「自己」に引きつけ脚色します。そのために「宿業」も自己保身の材料にすり替えられてしまうのです。
まあ、根源的な視点から見れば、自己保身の材料にすり替えることすらも、実は「宿業」のはからいなのです。すべては「絶対他力」ですから、どこにも、実体的な「自己」などはありません。「自己」とは阿弥陀さんが自由に動き回り、遊び回る運動場のようなものでしょう。「煩悩」も阿弥陀さんが引き起こすものですから、どんな煩悩が引き起こされるかは、「自己」に知らされていません。ある意味、それは「自己」にとって、恐ろしいことでもあります。阿弥陀さんの動きを制御することもできませんからね。
2.本日の浄土の講座ありがとうございます。武田先生は、浄土はどこにあるとお考えでしょうか?自分の身体からアミダが離れないと仰せ、人生は歩く影法師とはマクベスの言葉、浄土は現世にありアミダが寄り添っている。生きている時どうしていざという時、心が本質を離れ、まるで半盲人のようになるのか?
常に臍下丹田のようなよりどころが心にあり、それがアミダであり、アミダから離れていくのが人間、自分。離れる=浮くのが人間であり、念仏は離れない為のまじないのようなものか。離そうとするものは心の力こぶ。心の力こぶを解く方便が念仏でしょうか?力こぶのない心の状態が浄土か、力こぶのない状態でどう生きるか。何を生きるかが本質と思うのだが、さて本質は何だろうか。自問自答、ゆきつ戻りつ死ぬまで生きてゆきたいものです。
武田→ まず「浄土はどこにあるのか?」という問いですが、その問いの中に、既にして答えが包まれています。小生は、それを「問いの中に答えあり」とも言っています。「どこにあるのか?」という問い方は、すでにして、「どこかにある」という答えを予想したこころから起こっていませんか。また「浄土は現世にありアミダが寄り添っている」と記されていますが、その表現も、「現世」を貴方がどう考えるかによって、答えも違ってくるでしょう。あるいは、「常に臍下丹田のようなよりどころが心にあり、それがアミダであり」と記されていますが、この表現から推測すると、阿弥陀さんが我々の身体の内部にあるようにお考えなのかもしれませんね。
親鸞が生きていた時代にも、そのような考えが色々と出てきたのだと思います。それに対して親鸞は「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」(『教行信証』信巻・別除)と批判しています。親鸞が二十年間学んだ比叡山(天台法華宗)では、華厳経の「三界唯心・但是一心作」に影響を受け、「唯心の弥陀、己身の浄土」という考えが起こったようです。日本天台の霊空光謙(れいくうこうけん)(1652-1727)が「即心念仏」を主張し、「『浄土も弥陀も則ち我が心なりと知りて、念仏申す』ことで、唯心の弥陀・浄土の主張である。一元論的な浄土念仏思想で、そこから弥陀・浄土を来世・悲願に対置して口称(称名)念仏を主張した善導・法然の二元相対的な浄土念仏に対して、来世劣機のための方便にすぎないと評した。(略)霊空の即心念仏は、己心弥陀・己心浄土を主張した本覚思想の浄土念仏と軌を一にしている。」(『岩波仏教辞典』)
ある面で親鸞も、それに近いことを述べています。たとえば、『御消息集』15(聖典①p579②p710)で、「まことの信心をえたる人は、すでに仏にならせ給うべき御みとなりておわしますゆえに、如来とひとしき人と経にとかれ候うなり。弥勒はいまだ、仏になりたまわねども、このたびかならずかならず仏になりたまうべきによりて、みろくをばすでに弥勒仏と申し候うなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしとおおせられて候うなり。また、承信房の弥勒とひとしと候うも、ひが事には候わねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候うを、自力なりと候うらんは、いますこし承信房の御こころのそこのゆきつかぬようにきこえ候うこそ、よくよく御あん候うべくや候うらん。自力のこころにて、わがみは如来とひとしと候うらんは、まことにあしう候うべし。他力の信心のゆえに、浄信房のよろこばせ給い候うらんは、なにかは自力にて候うべき。」
まあ、これらの問いに単刀直入に答えられたものが、曽我量深先生の言葉です。
「私は昨年七月上旬、高田の金子君の所に於いて、「如来は我なり」の一句を感得し、次いで八月下旬、加賀の曉烏君の所に於いて、「如来我となりて我を救ひ給ふ」の一句を回向していただいた。遂に十月頃、「如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり」と云うことに気付かせてもらひました。」(『曽我量深選集』「地上の救主」第二巻p408)
曽我先生が、「如来は我なり」と感得されたということは、それまで、「我」と「如来」が分裂していたのでしょう。つまり「二元相対論」の意味場にあったのです。しかし、よくよく考えてみると、「我」などという実体はどこにもないことに気付かれたのです。この無実体なるものこそ「如来」(tathagata)です。ですから、「如来こそが我」です。
しかし、それでは、「自性唯心」とどう違うのでしょうか。「自性唯心」は、「如来は我なり」で完結してしまう閉鎖性を表しています。これが親鸞にとっては、「第二十願」と批判される精神性です。しかし、曽我先生の言う「如来は我なり」の裏側には、「我は如来に非ず」が張り付いているのです。この「如来は我なり」の閉鎖性をぶち破ってくるはたらきこそが「如来」です。
このぶち破りのために、本願第18願文には、「唯除五逆誹謗正法」という金言が置かれているのです。「如来は我なり」に閉塞する意識をぶち破り、「我は如来に非ず」へ疎外するのです。単純に言えば、「神も仏もあるものか」と仏法に背くこころを暴き出します。これは、「二種深信」の「機の深信」のはたらきです。
我々は「浄土はこれだ」とか、「阿弥陀さんとはこれだ」と「結論」づけたいのです。「結論」づけて安心したいのです。しかし、それをことごとく解体してしまうのが、生きた阿弥陀さんです。ですから、「浄土はどこにあるのですか?」と問われれば、「この世」にも「あの世」にも非ずとしか言いようがありません。人間の知で把握したものは、すべて「幻想」です。
妙好人・讃岐の庄松が「御本尊が物を仰せられたら、お前等は一時もここに生きて居られぬ」と豪語したのと同じです。庄松に質問した住職は、「吾が御堂の御本尊は生きて御座ろうか?」と問うたのです。それに対して庄松は「生きとる生きとる」と答えています。更に住職は、「生きて有らっしゃっても物を言わぬではないか」と詰め寄ったときの返答が、それです。住職の「生きて御座ろうか?」とは、人間が感覚できる形で生きているかと問うているのです。しかし、庄松は、「生きとる生きとる」と答えます。この「生きとる」とは、人間に決して感受できないようにはたらいて下さっているという意味です。譬えて言えば、阿弥陀さんは宇宙空間のようなものです。もし人間が阿弥陀さんに会ったら、そこは酸素もない宇宙空間ですから、一時も我々が生きていられるはずがありません。阿弥陀さんと我々の住む次元が違うのです。しかし、違うから「絶縁」しているかと言えば、そうではありません。「絶縁」という形で関係して下さるのです。
私の、いつも用いる親鸞聖人の和讃が、それを示しています。「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(聖典①p508②p622)
この和讃は親鸞聖人が85歳のときに書かれたそうです。そうなると長年、「浄土真宗」に帰依してきたけれども、真実の心になることはできなかった、と絶望感で述べているようにも見えます。しかし、私は、この「ありがたし」に注目したのです。この「ありがたし」は、「不可能」という意味ですが、これは親鸞の挫折の言葉ではなく、阿弥陀さんの「応答」ではないかと思えたのです。自分が自分自身のこころを振り返って、「ありがたし」と述べたのであれば絶望でしょう。しかし、阿弥陀さんから、「あること難し」と聞こえてきたなら、それは阿弥陀さんからの回向(愛語)でしょう。「浄土真宗」に帰依することは「不可能」なのだぞと、阿弥陀さんがおっしゃって下さっていると嬉しく感じたのではないでしょうか。「真実の心」も「清浄の心」も、ともに阿弥陀さん自身のこころであって、人間の自分に実現するものではないと、ハッキリと根切りして下さったのです。
3. 私の拙い感想にまで応答下さいまして有難うございました。「阿弥陀様の促し」と教えていただき驚きました。60才まで待っていて下さった。思いたったのが吉日。寿命あるうちに促しに応えられてよかったです。「仏法のために大学に行く。」もびっくり。大谷派の学校(大学・高校)は東京になく、通信制もない。今年はとりあえずあきらめましたが、「自分の為」ではないとしたら、どうしようかと、また考えるきっかけ、行動するきっかけをいただきました。
真宗は「成熟した一神教」というのも驚きです。「相互救済」であって絶対神ではない一神教ショックです。もっと知っていきたいと思います。
武田→ 「拙い感想」と書かれていますが、感想に「拙い」ことはひとつもありませんのでご安心下さい。また感想を頂き、有り難うございました。短い人生の一時を、この講座に費やして下さったことは、何より尊いことです。私以上に阿弥陀さんが感謝されているように感じました。
これは、すべてがそうなのですが、〈真・宗〉は「仏法」のために生き、「仏法」のためにすべてを費やすということがエートス(特性)なのだと、思います。私は『歎異抄』(第十六条)の、この表現が好きです。
「すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。」(聖典①p637②p780)と。人間、生きていればいろいろなことに遭わねばなりません。そのようなときでも、「かしこきおもい」で、あれこれと思いの坩堝をかき混ぜるのではなく、その思いも阿弥陀さんに明け渡し、ただひたすら阿弥陀さんの教育を受ける。そして、教えられたご恩の重いことを、常に思い出せるような生活であったらいいなあと思います。
また、皆さんがいらっしゃるから、私の中から「表現」が生まれてくるのです。聴衆は、お産婆さんのようなものです。
4.浄土真宗の僧侶の役割・あり方・責任について武田師はどうお考えでしょうか?また、浄土真宗の教団の役割・存在意義についてはどうでしょうか?「本弘誓願」についてのお話を聞く中で、釈迦-親鸞-蓮如-一人(私)が横並びという説明が「さて、僧侶の立ち位置は何処?」という単純な疑問を起こさせた次第です。本日も素晴らしく、深いお話をありがとうございました。南無阿弥陀仏 合掌
武田→ 「浄土真宗の僧侶の役割」は、この世の価値観を完全に相対化する視座を人々と共有することです。つまり、私の言う「〈無・意味〉」な者になることです。
親鸞は、『改邪鈔』で、「牛盗(うしぬすびと)とは言われても、仏法者と見えるように振る舞うな」(聖典①p680②p828)というようなことを言っています。これは「あかたも仏法を分かったような振りをするな」という誡めですが、それが「牛を盗むような大罪」以上に悪いことだと言っています。なぜ、そのようなことを言ったのでしょうか。
それは親鸞の言う「非僧非俗(ひそうひぞく)」というモラルに反するからでしょう。これは「僧に非ず俗に非ず」と読みます。人間の生業(なりわい)という意味で言えば、この世のあり方は、「僧」か「俗」かしかありません。その二項を「非ず」と否定しているのです。つまり、人間界を超えるということです。もっと言えば、「根源的に無意味な存在」になるということです。
この「無意味」は絶望的で、刹那的な「無意味」ではありません。人間を救うための「無意味」です。曇鸞はそれを「不虚作住持功徳」と言っています。「不虚作住持」ですから、「虚しさを超えるはたらき」という意味です。人間の苦しみは、「意味」によって起こります。「マイナスの意味」と「プラスの意味」によって苦しめられているのです。その「意味」を「無」と否定することによって、「人間界の意味」から脱出させるのです。
〈真・宗〉の僧侶の立ち位置は、「非僧非俗」以外にありません。
以前お話したと思いますが、佐野明弘さんが、もともと禅宗の雲水でした。しかし、縁があって真宗の僧侶になりました。佐野さんは、このようなことを語ったと記憶しています。禅の雲水の時には、「僧侶とは何なのか」という疑問はなかった。しかし、真宗の僧侶となってからは、「僧侶」とは何なのかが分からなくなったと。これが「真宗の僧侶」の面白さです。つまり、「これをしているから真宗の僧侶だ」、「これができるから真宗の僧侶だ」という「条件」がすべて奪われるのが〈真・宗〉なのです。つまり、「僧侶とは何かが分からなくなる」ということが、〈真・宗〉の僧侶の醍醐味なのです。つまり私の言葉で言えば、「〈零度の存在〉」になるということです。
5.資料3ページのB図(親鸞の穢土浄土概念図)では、地獄はどう位置付けられるのでしょうか。娑婆と同じように浄土にふくまれるということでよいでしょうか。
武田→ まず、貴方自身が、「地獄」と「娑婆」の違いをどのようにとらえておられるのか、それが分からないと、お答えすることはできません。まあそれを飛ばして、私の考えでは、「地獄」も「娑婆」と同じように考えますから、浄土に包まれていることになります。
この図は、あくまで二次元で表現するものですから限界があります。この浄土に包まれるということの意味は、「娑婆」や「地獄」の底を突く抜けたところに「浄土」が現れるということです。もし、「浄土」がなければ、この世には救いはありません。どんな災厄があろうとも、それを「結論」とさせないというのが「浄土」のはたらきです。ですから、浄土の本質は「転換」です。人間のあらゆる固定観念を「転じて」下さる場所です。まあ名詞としての「浄土」は「場所」ですし、動詞としての「浄土」は、常に固定観念を転じて下さるはたらきです。
6.昔から、宇宙の物質から地球が生まれたとして、その宇宙は何から生まれたのかが判らなくて、とても怖いなあと思っていましたが、どんなに考えてもわからないことがあることを受け入れられる「気がする」ようになってから、気持ちが楽になりました。そして、私にとっての阿弥陀様は、宇宙のはじまりのような存在、つながりではないかと思います。「南無阿弥陀仏」に出会えて良かったです。次回も楽しみです。
武田→ 私も、貴方のようなイメージで阿弥陀さんを受け止めています。まあ、〈ほんとう〉のことは分からないのですがね。そもそも、人類にとって分かっていることは、ほんの少しのことです。分からないことのほうが、圧倒的に多いのです。ですから、「そもそも」に帰ればよいのです。「分かって救われる」ではなく、「分からなくなって救われる」のが〈真・宗〉です。
7.方便法身というところに付随してですが、昔、映画でアメーバのような地球外生命体が地球人の体に入り込み人間を乗っ取って操る場面がありましたが、先生の御話を聞いて自分はこのアメーバのような煩悩に乗っ取られているが、さらにその煩悩も阿弥陀仏によって乗っ取られて操られているような心象が浮かびました。さらに世界全体までもが阿弥陀仏に乗っ取られ操られており、足の踏み場がなくなってしまいました。
武田→ 「足の踏み場がなくなってしまった」ということこそ、「救い」ではないですか。親鸞聖人も、「この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。」(聖典①p554②p679)とまで言っています。阿弥陀さんは、微細ですから、あらゆるものの中に浸透しています。我々のホンの些細な思いにも。誤解を受けるかもしれませんが、このこころの動きすら、阿弥陀さんの揺さぶりでないものはありません。そうやって、「自己というものが有る」という、固定観念を解体して下さいます。私は、明け渡すのみです。そして阿弥陀さんの運動場になっていればよいのです。