阿弥陀から始まる逆流

ここのところ、講演のためのレジュメ作りや、新刊書の作成作業やらに追われ、ブログの更新ができなかった。仕事の優先順位というものは、自分で作ろうと思っても作れるものではない。それは「おのずから」決まってくるもので、作為的に、それを変えようと思っても、それは無駄だ。一番、自分にとって気になって仕方がないことが、「おのずから」順位を決めてしまう。
 それらの作業が一段落したので、ようやくブログへといざなわれて来た。そればかりではなく、やはりブログを更新しようという動機の発端には、何か、このことを文字化してみたいという直観が、まずある。その直観に刺激されて、文字化を試みる。だから、「初めに直観ありき」なのだ。
 その直観を文字化すれば、「阿弥陀さんとの対話」である。まあ「阿弥陀さん」などというものが居るわけでもないので、お伽話の中の乙姫様のようなものだと考えていればよい。本当は、その直観を促してきたはたらきを人格的に表現しているだけなのだ。
 いままでは、発想の基点に、確かな「自己」があって、そこからすべてを考え始めていたと思う。まず、「自分ありき」という思いだ。しかし、阿弥陀さんに調教されていくと、ある時、それが「思い」であって、「実体」のないことを教えられる。そして、いままで「自分ありき」から発想していた発想の流れが逆流を始める。
 すべては「思い」であって、「実体」がない。安田理深が、「いかに大問題といっても、心のことである。人というも心、自分というも心で、仏というも衆生というもみな心である。だから心より小さく、またこれより大なるものはない。」(『安田理深選集 第九巻 p58)と言っている。ここまで明確に言われると、「ごもっとも」と言うしかない。これは「一切唯識」という考え方である。間違っていけないのは、「事物と心」があるという発想に於ける「心」ではない。あるのは、ただ「心」のみであると覚りだ。
 こうなってくると、「モノを思っている自分」とは何かが分からなくなる。「思い」が起こってくるのも、そのように「思わされる」因縁が起こってきて、「思っている」だけのことだ。何か「自分」という実体があって、それが「思い」の始発点ではないから、「自分」という視点からみれば、「思わされている」と言い得る。それでは「思わせているもの」は何かと問えば、それは自分には分からない。つまりは、「自分」以外であって、「阿弥陀」とか、「他力」ということにしている。これは、そうしているだけのことで、それこそ阿弥陀という実体があるわけではない。
 「思う」ということは、「思わされる」という受動と、「思わせる」という能動がひとつになって起こる現象なのだ。これを敷衍すれば、「見る」「聞く」「嗅ぐ」「食べる」「触れる」という動詞の構造も、そういうことになる。もっと敷衍すれば、あらゆる人間の行為が、こういう構造なのだろう。
 夕飯は済んだのに、テレビで美味そうなカツ丼を芸能人が食べるシーンを見れば、自ずとヨダレが出てくる。これは食欲というよりも、眼欲なのだろう。肉体は満腹なのだから、生理的に欲しがるわけがない。ただ眼が欲しがっているのだ。
 私の上では、「食べたい」という思いが起こっているのだが、これも「食べたくさせるもの」(能動)がはたらいて、「食べたい」という「思い」(受動)が起こっているということだ。
 恐らく猫や犬は、テレビの映像を見ても、食欲を刺激されることはないだろう。テレビの映像は、電気信号が発色しているだけであって、そこには、匂いがないのだから。人間は「思い」という世界を持っているので、テレビの映像を見て、過去に自分が味わったであろう豚カツの味を「思い」の中で再現させているのだ。だから、「豚カツ」という「思い」が欲しがっていることになる。
 それで、あらためて「自分」というものを考えてみると、「受動の世界」のことではなかろうか。身体と言っても、関係性を抜きには成り立たない。おそらく身体も「自分」の一部分ではある。しかし、それが「自分」の全体像ではない。「自分とは、いままでの過去に私が食べてきたすべてのもののここである」と言ったひとがいた。この身体を形作っているのは、食物だからだ。この食物が身体を形作ってきた。それも一部分ではある。人間は環境にある食物を摂取して生きているが、その環境の食物も、他の生物と関係していて、微生物の世界まで含めれば、全世界が「私の身体」と言っても大袈裟ではない。
 だから、身体をもとの環境へと還元してしまえば、「自分」はなくなる。そうは言っても「自分」はあると「思う」。この世に於ける「特殊存在」としてあると「思う」。この「思い」は、そう「思わせる」(能動)のはたらきによって、そう「思わされている」(受動)。いままでは受動も能動もなかったけれども、阿弥陀さんというものを立てることによって、初めて「受動の世界」を「自分」として受け取ることができた。もちろん、〈真実〉の世界には、受動も能動もない。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず」(『方丈記』)である。
 しかし、そこに「特殊存在としての自己」を入れ込むことによって、初めて「受動の世界」が生まれる。
浄土教史の文脈で述べれば、いままでは「自力」も「他力」も考えることなく無自覚だったが、「他力」という言葉を聞くことによって、初めて、「自力」ということが自覚化された。そこから、「自力」とは何かを追求してみたら、「自力」などはどこにもなく、すべてが「他力」だったと落ち着いた。
 そこが結論かと思いきや、そうではない。そこで初めて、「自力」と「他力」の境界が生まれ、「自分」の住む世界を「自力」として賜ることになる。この境界こそ、「唯除の境界」である。
 親鸞が、「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」(『教行信証』信巻)述べたのは、その「境界」でのことである。
 すべてが他力であれば、そんなに嘆き悲しむことは不必要のはずだ。すべては煩悩のなせる技であって、そこには一つも「自己責任」はないのだから。すべてが阿弥陀さんの一人働きでよいはずだ。親鸞は、そんなことは十分に分かっている。ただ、それを自分が「結論」として、自分の知の領域に引きずり込もうとしたとき、それを拒否するはたらきに会ったのだ。「救いの領域に入っていた」と思っていた思いが解体され、救いの門の外に立たされたのだ。
 「これでよし」と「結論」を握った思いが起こるとき、すかさず「恥ずべし傷むべし」と聞こえてくる。この声が聞こえて来たときに、門の外に立たされる。
 実は、門の中には、「救い」はない。門の外にこそ、強力な救済力がはたらいているのだ。これが「地獄一定」の座りであろう。