ご恩感謝を言わせない阿弥陀さん

 昨日の教学館特別講義では、橋本正博先生(横浜市・智光寺)に「教団問題」についてのお話頂いた。一九六九年四月に起こった「開申事件」に端を発した、いわゆる「お東さん騒動」は、約十年の歳月を経て、ようやく終息した。そのときの当事者である橋本さんに、この十年間を振り返り、お話しをいただいた。
 「開申」とは、従来、教団の頂点に居られた、「ご法主」が、「管長職」を長男・光照氏に譲るという達しだ。従来、「法主(宗教的権威)・真宗大谷派管長・住職(本願寺代表役員)」という立場を「ご法主」一人が担ってきたので、俗に「三位一体」と呼ばれてきた。「ご法主」は、その内の「管長職」のみを譲ると言い出した。それだけであれば、大した問題にもならなかったかも知れない。その後、「真宗大谷派」から「本願寺」を独立させると言い出したことで、大騒ぎになった。そればかりでなく、「本願寺代表役員」という立場を利用して、本願寺の土地を抵当に借金をしていることも判明する。
 大谷派は、「内局と法主」で出来上がっていた。譬えて言えば、日本国おける、「内閣(政府)と天皇」のような関係だ。「内局」のトップ、つまり「総理大臣」のような立場が「宗務総長」であり、当時は訓覇信雄氏が「総長」だった。彼は、高光大船師などの念仏者を先達として仰ぎ、「信心社」という信仰集団を結成(1948年)するほどの「信心の行者」だった。そして昭和三十七年に、いわゆる「同朋会運動」を創始した。
 その後、「法主」の長男・光照氏が住職だった「浅草本願寺」が宗派からの独立を表明し、それに連なるようにして、富山別院・井波別院、名古屋別院、福井別院も離脱を決議した。その年の、京都本山・本願寺で行われた報恩講が「分裂報恩講」と呼ばれるようになった。それは、内局側が本山を警備し、そこに法主側を境内には入れないという異例の事態が起こった。橋本さんも、警備要員として夜行バスで京都まで駆け付けたと語られていた。
 その後、宗門全体が動揺し、各地方でも様々な軋轢を生んだ。東京教区でも、新門(法主の後継者・長男・光照)を擁護する僧侶集団と、内局を指示する集団との対立が生まれた。結果的には、「浅草本願寺」は宗派から離脱し、現在に至っている。
 一九八〇年(昭和五十五年)に、「法主」が作った借財を宗派がすべて引き受けるということで、「即決和解」が成立し、紛争の終結をみた。その後、宗憲の改正が行われ、「宗派と本山は一体である」という「宗本一体」、また、決議決定システムを「同朋公議」と定めた。
 しかし、「法主」を擁護する僧侶たちは、「法主」と歩調を合わせようと、宗派からの離脱を表明し、実際に多くの寺院が離脱をした。
 いまから振り返ってみると、そのときの当事者は何を護ろうとして戦っていたのだろうか。まだ「教区」という意識も薄く、もちろん「教化委員会」などという組織もない中で、一般的な、いわゆる「ノンポリ僧侶」は騒動によって右往左往していたように記憶している。当時の末寺には、情報源が少なかった。有力な情報源は、「親類寺院」だった。ご存じのように、結婚・入寺は寺族間同士が、ほぼ百%だったから、根も絡み合うように、寺院同士が「親戚関係」にならざるを得なかった。親戚も確実な情報は掴んでおらず、いわゆるフェイク情報を真実の如くに伝え合っていた。私も耳にしたのは、「内局の法改正にり、総長の気に入らない住職は、首をすげ替えられるようになるらしい。これは大変なことになるぞ」だ。確かに宗憲では、住職は宗務総長名で任命されるのだから、間違いとまではいかないが、そのようなことが実際に行われたことはない。「法主」擁護派の僧侶たちにとって、内局派は、宗教的権威を傷つけるものだと思われたのだろう。橋本さんも言われていたが、「法主」擁護派の人々から、我々は「あいつらは赤だ!」と非難されたという。つまり、共産主義者だとレッテルを貼られたらしい。表面上は、僧侶で宗教活動はしていても、本心は共産主義を扇動する集団だと思われたのだろう。そんなことは、まったくないのだが、当時は、まだまだ東西冷戦時代でもあり、世界的にも資本主義と共産主義が対立した構図になっていたのだから、それも仕方がないと言えば、仕方のない反応だったのだろう。
 橋本さんが、最後に言われていたが、「当時の離脱された方々も、我々も真面目に考えてのことだったのだと思います。しかし、それでは、なぜ我々は大谷派に残っているのでしょうか」と。まさに、そのことが問われなければならないことなのだ。
 これは天皇制にも言えることだが、政治にも宗教にも「権威」は大切だが、「権威」が「権力」と結びつくことの問題性を「お東さん騒動」は提起していたのではないか。これは突き詰めてみれば、自己自身の「拠り所」の問題である。天皇や法主を「拠り所」とするか、あるいは、宗門という「共同幻想」を「拠り所」とするか。それであれば、両方とも「阿弥陀さん」を「拠り所」とはしていないことになる。かつての仏教は、「釈迦」というスーパヒーローを「拠り所」として成り立っていた。しかし、それでは「平等の救い」にはならないと、法然・親鸞は「阿弥陀さん」という救済原理を「拠り所」にした。しかし、それでもまだ問題は片付かなかった。それは対象を、「釈迦」にするか、「阿弥陀さん」にするかの違いであって、「権威」に依存する我々の体質は変わっていない。つまり、「権威」を自己以外に立ててしまえば、その「権威」によって自己は圧迫されてしまう。「権威」が知らず知らずのうちに、自己を圧迫する「権力」へと変質する。むしろ我々が「権威」を外に欲し、跪くことによって、自己自身を「権威」の奴隷として位置づけたかったのだろう。
 問題は外にあるのではなく、自己自身の内側にあったのだ。
 私も「なぜ自分は大谷派にいるのか」を問うてみた。そう問うてみれば、自分はやはり、〈真・宗〉という教えに出会わせていただいた師友への恩を感じずにはいられない。それを「教恩」と言ったりする。「教恩」がベースにあって、「教団への恩」へとつながっていく。一応、そのように言えるのだが、それは「一応」のことである。煎じ詰めれば、「教団」と言っても「共同幻想」であり、そんなものは実体としてどこにもない。確かに、間違いのないものは、〈一人一世界〉である。
 つまり、自分が「いま、ここに有る」ということの意味が充分に満たされていなければ、「恩」などは感じられないのだ。橋本さんのお話を聞いた後に、みんなで座談会をした。そのとき、あるひとは、「大谷派は、報恩講教団だと言うけれども、恩を感じられない」と言った。あるひとは「先輩たちにお世話になってきたとか、お寺のお仏飯で育てられたとか、確かにそうなんだけれども、それが御恩なんだろうか」と。
 それを聞いて私は、「そこにご恩を感じさせないものがはたらいているのではないかな」と発言した。我々が感じることのできる「ご恩」とは、メリットと結びついている。そしてメリットを数え上げれば、思い当たることも数々あるに違いない。しかし、それが果たして「ご恩」と言えるのだろうかと揺さぶってくるものがある。これが阿弥陀さんの揺さぶりなのではなかろうか。この揺さぶりを親鸞も受けたものだから、「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」とか「小慈小悲もなき身にて」(「愚禿悲嘆述懐和讃」)と表白せざるを得なかったのではないか。
 だから、素直に「ご恩に感謝いたします」と言えないのは、自分の側に問題があるのではなく、阿弥陀さんがそう言わせないようにはたらいているということなのだ。
 突き詰めれば、自分が「いま、ここに有る」ということの意味を、自己が理解することはできないということだ。自己が理解できることは、自己と同等か自己以下のものだけである。だから、「理解することはできない」ということは、自己が劣等だからとか、努力不足ということではない。阿弥陀さんが、理解しようとする手を打ち砕いてしまうということなのだ。そうなると、自分にとっての「いま・ここ・私」というものは、「永遠の不可知」として甦ってくる。それを私は「〈存在の零度〉」と呼んでいる。自分の把握している「時間」も、「空間」も、そして「自己」も、それらを「幻想」として暴き出し、把握しようとする力を解き放ってしまう。解き放たれてみれば、目の前の光景は、原始未開以外の何ものでもない。
 原始未開の空気を吸って、ようやく自分は、「一切衆生としての自己」へと着地することができる。やはり、「ご恩に感謝します」などと平気な顔で言えなくさせられることが、阿弥陀さんの「ご恩」ということなのだろう。なぜならば、「ご恩」とは、「もう済んだ」ことに対する感情だからだ。阿弥陀さんは、常に〈いま〉にしか居られない。「もう済んだ」ところには居られないのだ。