本日、『東京教報』186号が届いた。二〇一八年から「巻頭言」執筆の依頼を受けているが、「官報」的な冊子なので、ほとんどの方の目には触れない。それではあまりに可哀相なので、ここに公開させてもらった。
テーマ:「阿弥陀さんの謝罪」
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ひとは、誰かに謝罪をしてもらわないと気の済まないものを抱えている。車庫から車で、外の道路に出ようとしたとき、左から走ってきたバイクと接触しそうになった。バイクの運転手は、「いい加減にしろ、このやろう!」と叫んだ。この
ひとは、余程怒っていたようで、初対面の私に「いい加減にしろ」と叫んだ。「いい加減にしろ」とは、前に何か関係があってからの言葉だろう。このひとも誰かに、ちゃんと謝罪してもらっていないひとなのだと思った。
ところで、『涅槃経』に出てくる阿闍世王子は、父を殺して苦しんでいるとき、御釈迦さんの謝罪を受けている。「もし汝父を殺して当に罪あるべくは、我等諸仏また罪ましますべし」(『教行信証』信巻・真宗聖典p262)と。お前が父を殺して、罪があるとするならば、私にも罪があるのだ、と。つまり、阿闍世が罪を犯すような境遇になったのも、私のせいなのだと言って謝罪している。この謝罪を受けて阿闍世は、「無根の信」という境界を開いていく。「無根」だから、阿闍世自身の内部に根拠のない「信」である。この「根」は、一切衆生にまで繋がっている根っこだ。
『涅槃経』の文面には「御釈迦さんの謝罪」と書かれているが、親鸞はそれを「阿弥陀さんの謝罪」と受け取っていたと思われる。
いままで父殺しの罪に恐れおののいていた阿闍世が、「無根の信」を開くことで、地獄を怖れなくなる。地獄を怖れるこころは、まだ地獄に落ちていないこころだ。「無根の信」とは、自分が地獄と一体にになったことの発見だ。つまり、一切衆生の罪と一心同体になったのだ。阿弥陀さんの謝罪がなければ、一切衆生の罪と同化することはできない。
これは何も阿闍世だけに限ったことではない。なぜなら我々人類も、怨みを抱えて生きているからだ。どんな怨みか。それは、必ず死ななければならない(いのち)として産み落とされたことに対する怨みだ。この怨みが、あらゆる犯罪を引き起こす根源的要因となっている。この怨みが解体されなければ、「原理的に」、この世から犯罪はなくならない。
しかしまた、この怨みは、阿弥陀さんからの謝罪を受けなければ、決して解体されない。「お前にはひとつも罪はない。すべては私が悪かったのだ」と謝罪する阿弥陀さんに出遇うことによって、初めて「いえいえ、こちらこそ申し訳ありま
せん」と私の頭が下がる。この阿弥陀さんの謝罪に対する返礼を「念仏」というのだ。
いずれにしても、人類の喫緊の課題は、阿弥陀さんの謝罪を受けること以外にない。
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