青山俊董さんの「ことである」

毎週日曜日の東京新聞には、「生きる」というページがあり、ここの「今週のことば」という欄に青山俊董さん(愛知専門尼僧堂長)の文章が載っていた。筆者が選んだ言葉を挙げ、その言葉について文章を記すというスタイルだ。今回は、蘇東坡(中国・宋)の、「雨奇晴好(雨も奇なり、晴れも好し)」を題材にしていた。文章は次の言葉から始まっていく。
「雨奇晴好」の一句は、景勝の地、西湖を詠んだ詩の一節であったかと思う。雨が降ったら雨の風情を、晴れたら晴れの景色をたのしんでゆこうというのである。
 愛の教育に生きた東井義雄先生は、雨降り校長と呼ばれていた。運動会の前日、体育の先生が練習を終えて帰る生徒に「明日、もし雨が降っても天に向かってぶつぶつ言うな。雨の日には雨の日の生き方がある」と呼びかけた。
 この言葉を聞いた東井先生は大変喜ばれ、さらに一言つけ加えられた。「むしろようこそと雨を受けとめ、〝雨が降ってくれたおかげでこんな生き方ができた〟といえるような生き方がしたい」と。
 私もここ数年の間に、脳梗塞、心筋梗塞、大腸がん、心臓発作等々たくさんの大病をいただき、道元禅師の示される「同悲」(悲しみを同じくする)の勉強もでき、南無病気大菩薩と拝んでいる。いかなることも〝さいわい〟と受けて生きたいと思うことである。」
 このコラムは5人ほどが順番に執筆されているが、やはり、青山さんの文章が好きだ。
彼女も、大病を患ったり、あれこれ体調の不良も続いたようだ。ただ、文章の最後に「いかなることも〝さいわい〟と受けて生きたいと思うことである」と結んでいる。
 まあ、短いコラムだから、割愛された言葉たちがたくさんあるに違いない。コラムはどういう言葉で終わるかが、一番こころを悩ませるからだ。
でも、彼女の念頭には、阿弥陀さんはないんだろうな、法のみがあるんだろうなとも思った。
 真宗門徒には、阿弥陀さんがあって、この方と対話することを通して、あらゆる事象を受けていくことになるのだ。
つまり、それは、
一心帰命・
二種深心・
三願転入という構造だ。
いかなることも〝さいわい〟とは思えない自己(機の深心)があって、それが阿弥陀さん経由で説得されて、〝さいわい〟かどうかは分からないけれども、落ち着くべき大地(法の深心)へと着地するのだろう。
まさに二種深心の構造だ。
だから、災いがいきなり〝さいわい〟へとは結びつかない。これが凡夫の凡情の「ありのまま」だ。「ありのまま」とは、真実だ。
 まあ、青山さんに言わせれば、そんなことは百も承知じゃと叱られそうだが。
これだけは言いたい。末尾の「生きたいと思うことである」という結びの、「ことである」が効いている。
「生きたいと思う」は、その通りだが、そうは思えない自分が、確かに確保されている。
この確保があって、これに続いて、「ことである」という〈祈り〉が置かれているのだろう。「生きたいと思う」と「ことである」の間には、間違いなく、一拍の間隙があるに違いない。