教学館の見学研修で、立正佼成会本部を訪ねた。たまたま今年が、「大聖堂」が建てられてから六十年の節目の年であることから、多くの信者さんが、全国各地から集っていた。(コロナ前には千人規模だったが、現在は五百人規模に落ち着いているという)ざっと見渡してみると、多くは女性の信者さんたちだった。この式典の様子は全国の三百近い支部にネット配信されている。信者さんたちに向かって、庭野日鑛二代目会長がお話をされていた。フランクな語り口で親しみが持てた。四十分ほどのお話が終わり、信者さんたちは、少人数に別れ、「法座」が開かれた。「法座」とは、真宗で言えば「談合(座談会)」である。七~八人に別れて車座になり、それぞれの内面を吐露されていた。我々も、一人ずつ思い思いにグループに入れていただいた。ある女性は隣の支部長さんに大変に世話になったと話していた。その女性は連れ合いのアルコール依存で家庭生活がメチャメチャだったらしい。しかし、その支部長(女性)が来られると旦那さんはおとなしくなるのだと言う。ある夜も暴れていて、夜中の三時頃に支部長さんに来てもらったそうだ。やはり支部長さんが来られると静かになり、助かったのだと話していた。支部長さんは、支部長さんで、その女性のお蔭だと、お互いに感謝し合っていた。と言うのも、支部長さんの旦那は、「佼成会なんて、何なんだ」と活動に対して否定的だったそうだ。ところが、夜中でもあるし、暴れている旦那のところに駆け付けるには、車が必要だった。そのときも渋々車を出してくれたそうだ。やがて、支部長さんが駆け付け、案の定、おとなしくなった男性を見たとき、支部長の旦那は、「初めてお前たちのやっていることが理解できた」と頷き、それからは一転して私を助けてくれるようになったと話していた。だから、その女性の一件がなければ、旦那は誤解したままだったのだと。だから、その女性のお蔭なのだと、お互いがお互いに感謝を述べ合っていた。支部長は、「他のひとには出来ないような苦労をさせていただきました」と感謝の言葉も漏らされていた。
各グループには、「法座主」さんという司会進行役のひとが一人いる。そのひとの話の引き出し方、また信者への寄り添い方、話の回し方など、見事な司会ぶりだった。当然、私にも話を向けられた。私も、会長さんのお話をお聞きして、自分の感じるところを述べた。会長さんは、宇宙論の話をされていた。私も、それを受けて、自分がいま・ここに存在するためには、何十億年という時間が必要だったのだと話した。さらに、いま・ここで、皆さんと、このようにお会いできたのも、宇宙論的な奇跡が起こっているということなのだとお話した。皆さんは真剣な面持ちで、私の話を聞かれていた。
さらに大聖堂には、「蓮」のモチーフが多く使われているのだが、「蓮」こそが仏教の教えの本質を表現しているのだとも話した。「蓮」は泥田に咲く花だが、根っこは腐ることがない。腐るどころか、泥を栄養分として美しい華を咲かせる。この泥を栄養分に転換する力こそが素晴らしいところだ。泥とは我々の生活における煩悩と苦しみである。この苦しみを、たとえ苦しみがあったとしても、それにも関わらず生きるという力を「蓮」に学ぶのだ。
一時間ほどで、「法座」が終了し、その後、別室で、参加者一人一人に感想を聞かれた。お昼を過ぎていたので、豪華な客室のソファーの前には、銘々にサンドイッチと飲み物が置かれていた。細やかな気配りに恐れ入った。我々は一人一人、感動したことや、刺激を受けたことなどを述べた。口々に、司会者である「法座主」の進行力の素晴らしさへの称賛が述べられた。また、参加者は、少人数のグループに分かれても、少し離れた他のグループの動きなどに気を散らすことがないのだ。この信者の集中力の凄さには圧倒された。我々のやっている「座談会」では、これほどの集中力は生まれないだろうと思った。まあ普段、皆さんは各支部で日常的に「法座」を経験しているからこそのあり方なのだと思った。途中で新しいメンバーがグループの輪に入ったとしても、いままで進行していたお話の質が全然落ちないのだ。我々のやっている「座談会」に新たなひとが加わったら、いままで話し合っていた会話の質は落ちてしまう。つまり、全員が新たな参加者に関心が向いてしまい、いままで話し合っていた内容が、一旦、途切れてしまうに違いない。しかし、この「法座」ではそれが起こらないのだ。それまでの話の内容が、そのまま信者さんたちの関心として維持されているのだ。だから、新たに加わった者への関心は二次的なものになる。しかし、それは、無視とは違う。一旦、いままでの話題が収まれば、やがて「法座主」さんによって、必ず話を促されるからだ。「法座主」さんは、グループカウンセリングのベテランだった。
また、その時の司会をされていた「偉い方」は、お祈りも「請求書のお祈り」ではなく、「領収書のお祈り」でなければならないのだとも話されていた。つまり、こちらから仏さまに、「これをお願いします。あれをお願いします」という請求の態度ではなく、「お陰さまで助かりました」と、そのことを領収するお参りでなければならないと。我々に還元すれば、「罪福信」ではなく、「仏恩報謝」のお念仏でなければならないということになろう。
最後に、私は、「ここで行われていること、すべてが〈真・宗〉の中で行われていることなのだと思います」と感想を述べた。佼成会も「真宗内的佼成会」なのだ。それが私の視座でなければならない。そこに集った信者さんも、「たまたま佼成会」に出会ったわけで、私も「たまたま真宗」に出会っただけであり、それは御縁の違いとしか言いようがない。御縁の違いがあるだけだが、その違いをとっぱらってしまうことはできない。つまり、佼成会から見れば、「真宗」も「佼成会内的真宗」でなければならないし、真宗から見れば「真宗内的佼成会」と受け取れなければならない。お互いの違いは違いとして尊重し、それぞれがそれぞれの〈真実〉を表現する。それを私は以前、「視座包摂論」と言ったことがある。これこそが平和の論理だと。
自分の立つ視座は一つしかない。ひとが違うように、この視座も同じものは一つとしてない。しかし、その一つの視座が開かれれば、他者はその中に包摂される。包摂されてしまえば、他者はその一つの視座から見られた〈真実〉を表現するための援助者に変わる。まあそれを「方便」と言うのだ。唯一の視座が開かれていなければ、他者とぶつかってしまう。つまり同じテープルの上に乗っかってしまうから、他者と自分がぶつかる。しかし、唯一の視座が開かれていれば、他者は、その視座の内部の出来事に変換される。ハイデガーが「すべての〈反=アンチ〉は、それが立ち向かう相手の本質の中に必然的にとらわれている」(『森の道』)と言ったのは、そのことだろう。つまり、他者の存在が目障りとなり、他者は〈真実〉ではないと批判したくなるのは、自分にたった一つの視座が開かれていないことの証拠なのだ。自分にたった一つの視座が開かれていれば、いかなる他者も、その〈真実〉が立ち現れてくるための「荘厳」として受け取られる。
まあこれは親鸞の言う「顕彰隠密」という受け止めのことなのだ。「顕」の視座は、どこまでも〈真実〉と「方便」の違いを顕かにし誤魔化さない。ただし、「彰」の視座が開かれれば、その違いが無化され、あらゆるものが、〈真実〉を表現するための「荘厳(条件)」とされる。「目障り、これさえなければよいのに」と、「反(アンチ)」という態度が生まれるのは、その視座が「顕」のままであり、「彰」の視座になってはいないのだ。
それであるから、皆さんが「法座」の終了時に、合掌して「南無妙法蓮華経」と三回唱えるとき、私は皆さんの声に合わせて、「南無阿弥陀仏」と小声で称えていた。