第一回秋葉原親鸞講座の質問と応答

第1回 秋葉原親鸞講座(2024.4.10)感想・質問への応答〔武田定光〕2024/5/8

1、お釈迦様は、どのように法蔵菩薩の48願の内容を知って、話すことができたのでしょうか。

武田→ そもそも、「お経」は、実際の「人間釈迦」がすべてを語ったものではありません。仏弟子たちが、釈迦の説法を記録したものだけでなく、後代の弟子たちが「お経」を受け止めて、お釈迦様は、こう語りたかったのではないかと、想像しながら書き上げたものでもあるのです。私は、その仏弟子たちを、あえて「経典制作者」と呼んでいます。
 ですから、「原始浄土思想」(藤田宏達氏用語)を生み出した『無量寿経』群は、「経典制作者」の作品であると考えるべきだと思います。もっと広く言えば、「お経」はすべて「経典制作者」の作品です。釈迦が筆を執って書かれたものでない以上、それは弟子たちが受け止めた限りの、仏弟子たちによる制作作品なのです。
 しかし、そうなると、それは仏弟子たちの受け止めた限りの「お経」であって、果たして釈迦が語った「正確な思想」とは異なるのではないかという疑問が生まれてきます。それで「正確な思想」を確定する方法が要求されて来ました。その一つの方法が天台大師・智顗(ちぎ)(532~597)の考案した「五時八教(ごじはっきょう)」という方法(教相判釈)です。「お経」はすべて釈迦が説かれたという前提を立て、釈迦が35歳のときに覚りを開き、80歳で亡くなるまでの45年間の生涯を、「五時(五期)」に分け、「お経」に配当する方法です。1華厳時、2鹿苑時(阿含時)、3方等時、4般若時、5法華涅槃時の「五時」に分類します。それで、1~4は、まだお釈迦様の説法は円熟しておらず、最終結論である「法華涅槃時」こそが、御釈迦さんの言いたかった「正確な思想」だと決定づける方法です。
 「法華経」の行者である日蓮は、この「五時八教」説に則り、「法華経」の序論とされる『無量義経』の中にある「四十年未顕真実」に注目し、釈迦が最晩年の五年間に説いた「法華経」こそが真実であり、それ以前に解かれたお経は「真実」ではないと考えました。 この発想は、まず釈迦がすべての「お経」を説いたと考えることを前提にしています。譬えれば、一人の作者がいて、その作者が、「私の人生の前半で書いた作品は、まだ本質を掴んでいません。晩年の五年間に説いたものだけが本当のことなのです」と言うようなものです。これも「五時八教」説が「正しい」と考える前提をもとにした発想であって、果たして、この方法そのものが「正しい」かどうかが問われていません。正確に言えば、この発想法を用いた場合において、「これこそが正しい仏説だ」と主張するすることができても、他の発想法を元にしたら、正しいとは言えないというです。
 他には、近代にヨーロッパから生まれた「実証主義」的なアプローチもあります。マックスミュラー(1823~1900・インド学者・東洋学者・比較言語学者)たちの「比較言語学」的な方法で、「漢訳」より初期にあった言語(サンスクリット語等)のほうが、より正確な釈迦の思想だと考える方法です。まあ考古学的アプローチと言ってよいでしょう。歴史的により初期の文献が「真実」に近いと考える方法です。(私はこの二つの発想を、「上流純粋論」と批判もしました)
 まあこれも、「考古学的関心」は満たされても、信仰的関心を満たすことはないでしょう。結論的を言うと、親鸞が何を〈真実〉だと直観していたかと言えば、それは、「いつでも性(時間超越性)・どこでも性(空間超越性)・誰でも性(実存超越性)」です。この三つのルールが成り立たないものは〈真実〉とは見ていません。この直観を元にして、「経典群」を再編集していきました。それが『顕浄土真実教行証文類』(略称:『教行信証』)という作品です。
 親鸞は『教行信証』(教巻)の冒頭で以下のように、述べます。
「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。
 それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。
 この経の大意は、弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萠を拯い、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。ここをもって、如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり。」(聖典①p152②p163))
「真実の教」を「大無量寿経」と決めたのは、「弥陀」と「釈迦」という「二尊教」が語られているからです。「浄土教」以前の仏教は、釈迦「一尊教」でした。この発想は、釈迦をカリスマにする発想でした。そこから、「弥陀」という救済原理を見出すことによって、釈迦を「カリスマ」から「凡夫の一人」として救い出したのです。「一尊教」は、「教主」と「救主」の役割を一人の人間が背負わなければなりませんから、無理があります。人間は「煩悩」(エゴイズム)を捨てて生きることはできませんから、自分を度外視して他者を救うことは不可能です。ところが、「弥陀」は、自己を捨てて他者の救いのためだけを願います。これが「誓願(せいがん)」です。
 「二尊教」を見出すことによって仏教の「健康性」を取り戻したのです。「教主」(教えの主)はあくまでも人間・釈迦であり、「救主」(救いの主)は阿弥陀さんだと分離しました。分離することで、釈迦と我々の位置がヨコ並びになりました。つまり、これが「誰でも性」のルールです。釈迦の直観したものは、我々誰もが直観できるものになったのです。もし、お釈迦様が超能力者であり、カリスマであったら、我々には一生、平等の救いは成り立ちません。最初の問いである。「お釈迦様は、どのように法蔵菩薩の48願の内容を知って、話すことができたのでしょうか」に戻りますと、果たして『大無量寿経』の表現そのものを人間・釈迦がしたものであるのかどうかは分かりません。たとえ人間・釈迦が表現したものであったとしても、この発想を「自分が着想したのか」、あるいは「誰かから聞いたのか」、あるいは「この物語の元型のようなものがどこかにあったのかどうか」、それも分かりません。
 『仏教になぜ浄土教が生まれたのか』(ノンブル社)で、松岡由香子は「多様な地域での厖大な創作である大乗経典」と言い、「浄土教は、キリスト教と同じく、その中心的思想要素をペルシア宗教に溯らせることができると結論できよう」とまで述べています。
 ここまで来ると、「阿弥陀信仰」の起源を、インドではなく、ペルシア宗教に求めるか、あるいは、「仏教内部」に求めるかという起源説問題にまで話が及びます。
 私は起源説問題には、あまり関心がありません。なぜならば、私は、地球を「一人の脳」に譬えて考えているからです。一つの脳であれば、地域も時代も超えて、共通のフォルムの断片が出現します。地球の中のインド部分、あるいは中東アジア部分、ヨーロッパ部分、アジア部分、アフリカ部分、オセアニア部分、中南米部分などと地域は別れます。しかし、それらの民族には、それぞれ固有の物語があり、固有の信仰を生みます。
 ところが、それらの地域の差や、時代の隔たりをも超えて、共通の現象が浮かび上がってくることがあります。そのとき、その現象を、どこか一つの起源から派生して他の地域に伝播していったと考えがちですが、そうでしょうか。なんの連絡も関係もない地域で、似たような物語や伝承が起こるということは、やはり、同じ人類という種の持っている、共通のフォルムが存在しているからだと思います。この共通のフォルムが、時代や地域を超えて人類に浮かび上がってくる。これが「浄土教」という阿弥陀信仰を生み出した元型ではないかと考えます。それでキリスト教とも似た形を取るのです。
 ただ前回にも述べましたが、その信仰現象は、「〈真実〉のフォルム」の部分的表現であって、完全なる表現ではありません。『仏説無量寿経』で展開する阿弥陀仏物語と、オーソドキシーなキリスト教の神の物語を比べると、「〈真実〉のフォルム」をより正確になぞっているのが、阿弥陀仏物語だとは思います。
 キリスト教信仰の神様は、唯一絶対、完全無欠であって自律した人格神です。この神様が人間を救うために愛を施すという形を取ります。ところが阿弥陀仏物語の阿弥陀仏は、完全無欠で自律した人格神ではないのです。阿弥陀仏の誓願は、この世に苦悩する者が一人でも存在したならば、自分は仏失格であると誓います。つまり、目の前の貴方が救われなければ、私は仏には成れないと誓っているのです。これが「愛」というものが人間に関わるときの普遍的な「〈真実〉のフォルム」ではないでしょうか。
 これも譬えですが、絶大な力のある者が、川で溺れている弱者を救うという救いではありません。それであれば、力の余力がなければ助けることはできません。つまり、助けるために全力を尽くさなくてもよいのです。そうではなくて、川で溺れている人間を助けるために、助けることができるかどうかも分からぬままに全身を投げ捨てて川に飛び込み、もがき苦しむ者と同悲・同感する救いです。これが阿弥陀さんの悲愛の、物語的表現だと思います。
 ですから、原始浄土思想の経典群には、「誓願」が48願もあれば、24願も36願もあるのです。それはどれが正しいということではなく、どれもが「〈真実〉のフォルム」の断片を表現したものだと受け取ればよいのです。48願と書かれていても、本願は一つに違いないのですから。それは「貴方が救われなければ、私は仏に成ることができない。だから何はさておき、いち早く救われて下さい。私の願いを叶えられるのはあなた一人なのですから」という願い一つなのです。(私はそれを「相互救済物語」と呼んでいます)

2、親鸞と道元に共通項(教え、宗教的姿勢など)があるのか、武田師のお考えを伺う機会があると嬉しく思います。

武田→ 私は坂東報恩寺に伝承されてきた、道元禅師の払子(ほっす)授与の物語が大事だと思っております。これは坂東性純先生から、生前お聞きしたお話です。報恩寺には親鸞像が安置されているけれども、その左手には念珠が、そして右手には払子(ほっす)が握られていて、これは道元禅師から頂いたものだ、と。
 それで江戸幕府が文政12年(1829)に作成した『御府内寺社備考七』の「報恩寺」のところを調べたら、宝物として「払子 達磨大師伝来 一尺三寸七分」と書かれていました。
 私も若いときに、そのお話を伺ったものですから、半信半疑で聞いていたのです。しかし、両者の伝記を調べてみると、それは案外本当のことかも知れないと思われたのです。親鸞が80歳の頃の住まいは、京都五条西洞院ですし、道元禅師が最晩年53歳の頃におられたのが、五条高辻だそうです。つまり、距離にしても近いことが分かったのです。ご近所ということであれば、そのときお会いしたのではないかとも思えたのです。そのときの関心は、その程度のことで終わっていったのですが、やがて、それを裏付ける文章に出会いました。
 それは、道元禅師が書かれた『正法眼蔵』の「生死(しょうじ)」の巻について、西有穆山(にしありぼくざん)禅師(1821-1910)が語られた『正法眼蔵啓迪』の文章です。最初に「生死」の巻の原文の一部を記しておきます。
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。」
 この道元禅師の言葉を西有さんは、次のように解説されています。
「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて」。ここらはどうも真宗の安心とよく似ている。これは親鸞が浜子で開山に相見して法をきかれ、そのとき開山が手ずから払子を上人に贈られたことがある。そこでこの御巻(ごかん)は親鸞に書いてやらしたものだというが、この安心の仕方でそれが知れる。「わが身をも心をも」。自分了見はみんな捨ててしまって仏の家に――真宗なら南無阿弥陀仏、禅宗なら南無帰依仏というように、仏の方へ身も心も打任せる。そこで身心ともに自己がなくなるから、今度は仏の方から行なわれることになる、この身が仏法で行なわれるようになる。凡夫は凡夫の身心で仏法を行なうから駄目じゃ。仏の方からこっちの身心が行なわれて来るように、我れは仏になり仏が我れとなって、我れが万法を修するにあらず、万法が我れを修するとこういかにゃならぬ。仏の方から行なわれて来るのでないと真実(ほんと)ではない。ゆえに身も心もなにもかも、作法是れ宗旨で、ただ行仏威儀(ぎょうぶついぎ)に従い、ただ仏の教に従って寝るも起きるも仏法になってゆけばよいのだ。」
 ここに道元禅師がみずから「払子」を親鸞聖人に渡したと述べられているのです。文中の「浜子」がどういう意味か分からないのです。(どなたかおわかりになる方がおられたら教えて下さい)さらにこの「生死」の巻は、「親鸞に書いてやらしたもの」と述べているのですが、これはどういう意味でしょうか。つまり、禅の奥義を親鸞に対して解説してあげたという意味なのでしょうか。それはともかく、道元禅師と親鸞聖人が対面されたとき、どのような会話をされたのでしょうか。お互いの立場は、自力修行の禅、こっちは他力本願の真宗でまったく異なるように見えるけれども、課題にしてきたことは同じだと共感されたのではないかと思います。それが「〈真実〉のフォルム」です。禅は只管打坐で、「ただ坐る」ですし、真宗は「ただ念仏」です。つまり、立場は違えども、「ただ」は共通しているのです。「ただ」とは「無条件」という意味です。つまり、人間の「作為」(自力)を超えたところに〈真実〉があるという受け止めです。西有さんの言葉で言えば、「作法是れ宗旨で、ただ行仏威儀に従い、ただ仏の教に従って寝るも起きるも仏法になってゆけばよいのだ。」です。「作法是れ宗旨で、ただ行仏威儀に従い」とは、それぞれの宗旨や作法は異なっているけれどもという意味でしょう。たとえそうであっても、真宗ならば、「寝るも起きるも仏法」を南無阿弥陀仏と表現しますし、道元禅師ならば、それが「只管打坐」の奥義となるでしょう。それで、道元と親鸞は肝胆相照らす仲になったのではないかと想像しています。このように立場は違っていたとしても、尊敬し合い共感できる関係が、信仰の「正しいあり方」だと思います。ただ問題は、道元であっても、「自分の理解した親鸞」を「親鸞」だと思っていますし、親鸞も、「自分の理解した道元」を「道元」だと思って付き合っているのです。どこかに「客観的な道元」とか「客観的な親鸞」がいるわけではありません。だから、「道元が真宗になった」わけでも、「親鸞が禅宗になった」わけでもありません。ただそこには「〈真実〉のフォルム」に共鳴している二人がいただけです。
 これは誰にでも当てはまることですね。他者との関係を思えば、「自分の受け取った限りの他者」しか受け取れないです。また「自己」と言っても「自分の受け取った限りの自己」しか「自己」とは思えないのです。しかし、それは「思い」で受け止めた範囲内のことで、そんな「思い」は限定的なことであって、〈真実〉ではありません。そうやって、「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて」しまうことを、〈真・宗〉では「南無阿弥陀仏」と表現するのです。〈真・宗〉とは、「唯一の視座」を開くことです。この「視座」が開かれれば、全世界・全宇宙が、この「視座」の内部に統一されます。つまり、私の言葉で言えば〈一人一世界〉が確立するのです。あらゆることが〈一人一世界〉の内部で起こっていることですから、自分に無関係な出来事は一つもありません。外部に見えている景色も環境も、すべては私自身の分身なのです。縁起という関係性そのものが私ですから、私でないものは一つもないことになります。
 先日、曹洞禅の南直哉さんがお話に来られて、そこで私は質問したのですが、彼もその話は知っているとのことだったので、ルーツを聞くと、やはり西有さんの本で読んだのだと言っていました。それ以前のことは自分は知らないとのことでした。そもそも、『正法眼蔵』全巻が道元禅師がすべて語られたものではないそうで、この「生死の巻」も真偽は定かでは無いと。しかし、私は道元禅師と親鸞聖人はお会いしていただろうとは思います、と付け加えられました。
 さらに付け加えると、先日(2024年4月20日)に東上野にある報恩寺へ行ってきたのです。そして現住職である坂東性悦さんに伺いましたら、この親鸞座像(御影像)は、親鸞63歳当時のお姿を彫られているのだそうです。長年連れ添った愛弟子である性信房が、関東から京都に訪ねて来られ、やがて関東へ帰るために師親鸞に頼んで彫られた座像らしいのです。それで「形見の御影」と言われています。確かにお顔はお若い感じでした。この座像が「払子」を右手に持っているということは、その頃、道元禅師とお会いしていたのかも知れません。親鸞が生前に彫らせたのであれば、「払子」を持つというポーズは、おそらく親鸞自身が注文したモチーフだと思われます。一般的な親鸞像は、念珠を握っているものが多いです。そうなると、やはり道元さんとの出会いを象徴していますし、「〈真実〉のフォルム」は「一宗一派」に偏るものではないと示されたものかも知れません。住職の話によると、報恩寺は元々、茨城県常総市にあったのですが、そこにある「性信房座像」も「払子」を握っているのだそうです。これも実に興味深い伝承ではないかと思います。江戸期に東本願寺が創建されたとき、御影堂に安置する親鸞像がなかったので、関東の旧蹟寺院に白羽の矢が立ったそうです。報恩寺にもお声が掛かったそうですが、当時の住職が「彫刻作品」として完璧なものではないので、と辞退されたそうです。もしこの座像が京都の本山に安置されていたなら、現在の「教学体系」も随分変わったものになっていたのではないかと想像します。

3、やはり行信はいただいていくものであるのだ。如来の行はどんなに称えても私のものではないが、「信」だけが行の中の信として我に属するものだ、回光の内容だ。「信じる」という働きが如来そのものなんだと教えて頂いた。「信じる必要がない宗教」とは言葉が足りていない。まあ最後の(3頁)2~3ℓを書いていただいたので前置は必要でした。表現が展開がわかりました。おもしろい。
13(4頁)が全てです。機に触れずに“永遠の命令形”と言われたら、救いが何かということも混乱してきそうです。
 信は願より生ずれば~ 信の成就が願そのものなんだ。だから願に生きていけるんだ…と感じています。
現代も苦しみに満ちている。道場樹(生きることが道場なんでしょう)。苦しみを苦しみとして翻していく人生は修行かもしれぬ阿弥陀の光を受けて。
(質疑)どちらも道理、道理に救われるんじゃないか。

武田→ ずいぶん聴聞歴のあるかたの感想・疑問だとお見受けしました。親鸞聖人は、よく「行信」という言い方をされ、「信行」は『真宗聖典』では二箇所しか使われていませんね。親鸞の考えていた「行」は「行」のみでも、また「信」は「信」のみでも成り立たないということでしょう。「行信」としか言い表しようがないのです。なぜならば、「行」とは、阿弥陀さんが我々にはたらきかける作用ですし、「信」とはその作用が凡夫にはたらいている状態ですから、これを切り分けることができません。しかし、我々に説明するときには、やむを得ず「行」と「信」に分けて表現することもあるのです。我々が「行」と聞けば、「自分が修行する」行為として捉えてしまいますし、「信」と聞けば「自分が何事かを信ずる」心理作用と捉えてしまうからです。親鸞の言っている「行」と「信」には、その「自分が」という始発点が解体され、阿弥陀さんに明け渡されているのです。それを譬喩的に「如来回向」と言っています。始発点は「自己」ではない、あくまで「如来」だというわけです。
 文中の「「信」だけが行の中の信として我に属するものだ」が少し気になりました。確かにその通りなのですが、「我に属する」という表現に違和感を感じました。まあ、一応、「願」は阿弥陀さんの願い、「信」は凡夫が願を受け止めたこと、という使い分けがありますから、そのように言わないと混乱しますね。しかし、〈ほんとう〉のところは、「願」や「信」という言葉も不要なのでしょう。我に属するものは、一つもないというのが〈ほんとう〉のことのように思えます。親鸞の言う「信」が人間に受け止められるときは、必ず、「信ぜよ、まかせよ!」という阿弥陀さんの絶対命令としてなのです。この絶対命令を生涯、どの瞬間に於いても受け続けることです。だから「信じた」という過去形には決してなりません。自分にとっては、つねに「外部」にあるもの。その「外部」から受け続ける命令、それが「信」です。命令を受け続けるということは、「信じられる者」になることを想定してはいません。「信じられる者」になってしまったら、阿弥陀さんが命令する必然性がなくなります。ですから、つねに、「信」は私に成り立ちません。それは成り立たせまいとする本願を受けているからです。この絶対命令を受け続けることが、親鸞のいう「信」なのです。
「信の成就が願そのものなんだ。だから願に生きていけるんだ、」という表現も、確かにそうなんだ、間違いはないとは思えるのですが、そこに「唯除」があるかどうかが問題ですね。私は「願に生きていける」という表現はしません。なぜならば、私は本願に背いているものだからです。「それを忘れるな」と、本願第18願文の末尾に、「唯除五逆 誹謗正法」が打ち付けられていますね。本願は、どこまでも阿弥陀さんの願いであり、私は本願に背き、「罪福心(利害損得心)」で生きている者です。だからとても、「願に生きていける」とは思いません。ただ、その「唯除」された者にのみ、阿弥陀さんは強烈に関わってくることは間違いありません。

4、興味深いお話でしたが、結局「信」についてはよく分からなかった。

武田→ 「「信」についてはよく分からなかった」とは、どういう意味でしょうか。「よく分からないから、学ぶのをやめる」という意味でしょうか。それとも「分からなくても聴聞を続ける」という意味でしょうか。究極的には、「面々の御はからい」(『歎異抄』第二条)ですから、どのように態度決定するかは、各人の業にまかされています。若い頃の私は「信心」が欲しくてたまりませんでした。そして師に「どうしたら信心が獲られるのですか?」と問いました。すると師は、「なにもせんでええんです」とだけ答えられました。私は面食らいました。そして現在の私は、「どうしたら(how toの知)」という問い方が自分を苦しめていたと気づきました。「どうしたら」という問い方は、「こうすれば、ああなる」という発想を前提にした問いです。この「こうすれば、ああなる」という発想を、完膚なきまでに「対象化」せよというのが親鸞の「信」ですから、この問い方が撤回されなければ「信」ではありません。親鸞聖人も「極難信(ごくなんしん)」とおっしゃっておられれますから、「難しい」のでしょう。しかし、その「難しさ」は、「これから信を獲得しようと志す場面での難しさ」ではありません。「信を獲ようとすること、そのことが不可能(難)だった」と、目覚めた「難しさ」です。これから信を獲ようとするときに現れる「難しさ」はdifficultディフィカルトですが、目覚めた後に感じる「難しさ」はインポッシブルimpossibleです。決して人間には、「信心」など成り立たないと思い知らされた「難しさ」です。だから、「難しくてよかった」というご利益が与えられます。「難」を目の前にしたとき人間はディフィカルトだと感じます、しかし、やがてその「難」がインポッシブルに深化することで「救われていく」のです。

5、たての宗教は権威主義と云うが仏教に限らず、たて型でなければ宗教にはならないのでは?

武田→ 私の言った「タテ型」とは権威主義的宗教のことです。「たて型でなければ宗教にはならないのでは?」と言われれば、その通りだと思います。どうしても宗教は、「権威」を必要としますね。「権威」が「権威」であるうちは、まだ「権威」が正常にはたらいているのです。ところが、「権威」が「権力」へと変容すると、恐ろしいことになるのです。明治期から始まった天皇制政治は、「天皇」という権威を利用して、「権力」の横暴を生みました。人間は集団生活をするものですから、それらを統制するために「権威」をでっち上げるのです。仏教も「僧伽」という集団を作りましたから、仏陀を「権威」として立てました。でも、人間に「権威」を負わせると、必ず「権威主義」に傾斜します。それで、親鸞は「釈迦」の権威を権力化させないために、「阿弥陀」というアースを用いました。どこまでも、「釈迦」は「人間」、つまり「教主(教えを説く役割)」であり、「阿弥陀さん」は「救主(救いのはたらきをする役割)です。これが混乱すると「権威」が「権力」に変容します。ですから、「阿弥陀さん」という「救主」を立てることで、「タテ型」が、「ヨコ型」になるのです。

6、対面で聴聞できる幸せを感じる、あっという間の1時間半でした。

武田→ 本当にそうですね。やはり、「法座」はLiveライブが一番でしょう。生身の人間と生身の人間が出会うことで、「言葉」だけの関係を超え、もっと深層での交流が起こっているのでしょう。ですから、聴衆の方は、「言葉」だけを聞いているわけではないと思います。「言葉」が生まれてくる深層をも丸ごと受け止められているのだと思います。実は、話し手の私自身も、「聞き手」なのです。私の深層からやって来る促しを「聞いて」いるのです。その聞こえてきたところを発語しているだけです。その深層は個人を超えて、皆さんと共有されているのだと思います。皆さんと私の深層には、「〈真実〉のフォルム」があるのです。その響きから言葉が生まれ、その響きを一緒に聞いているのだと思います。
本当の話し手は、「阿弥陀さん」なのでしょう。まあ「阿弥陀さん」と言っても、西洋一神教の考えているような「強固な人格神」ではなく、「脱人格性」の物語的表現です。

7、真宗の、というか仏教講座に初めて参加しました。とても刺激的な、投げかけ、問いが続いて、受けとめきれない思いもしましたが、今、ここから始まるという(根拠はありませんが)何かしらの感覚が自分の中に生じてきました。そして、ただただ面白いなと思いました。次回が楽しみです。

武田→ ご感想有り難うございました。「今、ここから始まる」という言葉に私も感動しました。私たちは、「時間」という、人間だけが持つ「特殊な観念」を生み出しました。他の生き物に「時間」はありません。ですから、「死」も、そして「生」もありません。ついでに言えば、「時間」ばかりではなく、「死」も「生」も、人間が生み出した「特殊な観念」です。私たち人間は、自分の見ている眼は「無色透明」だと思い込んでいるのです。ですから、「時間」は、「客観的」で「物理的」で、間違いのないもの、つまりは「真理」だと思っているのです。「過去」→「現在」→「未来」という「流れる時間」は、人間の「観念」の中にしか住めません。事実は、〈いま〉しか生きていないのです。結論を言えば、〈真実〉の時間は流れません。この「流れない時間」と人間が出会うのは、つねに〈いま〉以外にありません。親鸞が和讃で、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(讃阿弥陀仏偈和讃)と詠うときの、〈いま〉です。人間は「流れない時間」を直観することで、初めて「流れる時間」を相対化することができるのです。人間の観念を否定媒介として、〈真実〉はあるのです。

8、次回以降歎異抄の内容に沿った講義を望みます。

武田→ 『歎異抄』の学び方として、曽我量深先生は、「前十条を暗記する」と言われました。まあ暗記するほどに『歎異抄』を身体化するという意味でしょう。仏教語は、「理世俗」と言われ、真理には完全には触れ得ないけれども、一面的には真理の法則性を表現するのです。ですから、その法則性を表した「言葉」を記憶するほどに意識化させることで、真理を感じ取らせようと言うのです。また別の先生は、自分が気になる条を一つでよいから暗記するとも言われました。これは一点突破全面展開のやり方です。『歎異抄』の言葉は、海面に浮かび上がってくる泡のようなものです。その泡を見つめていると、やがてその泡が生まれてくる深海へと引きずり込まれていきます。ですから、各条はバラバラのように見えますが、深海では繋がっているのです。