阿弥陀には「阿弥陀」という名前が必要ない。阿弥陀さんは、西洋一神教の「神」のように厳然と、誰が何と言おうと、初めから「神」として有るようなものではない。阿弥陀さんは、救済対象である人間が救われなければ、完璧な仏ではないと誓っている存在だ。つまり、無前提に「有る」ようなものではない。我々の救済を条件としなければ、存在しないものだ。
そのために敢えて「阿弥陀」という名前が必要なのだ。「阿弥陀」という名は、我々を救うための契機として必要不可欠なものだ。だから、阿弥陀さん自身には名前はないのだ。また名前を必要としないのだ。あくまでも、救いの対象である人間から呼ばれるために名前が必要だったのだ。
これは、相対有限な人間が、超越に触れるための契機の問題だ。「神は永遠なる存在です」とか「阿弥陀さんは人間の思いを超えている存在です」という表現がある。その場合の「永遠」とか「思いを超えている」という形容が、なぜ可能なのだろうか。所詮、相対有限な人間が、そう言っているということは、それは「永遠」でも「思いを超えている」ということでもないことになる。
だから、相対有限な人間にとって、「永遠」や「思いを超えている」は、人間には「分からない」ということだ。それを「難思」という。ところが、親鸞は「難思」は第二十願の次元と分類する。しかし、同じ「難思」なのだが、「難思」に「議」を付けた、「難思議」は第十八願と分類する。「難思」と「難思議」の違いを親鸞は丁寧に解説はしていない。だから邪推するしかない。
「難思」と「難思議」は同じように、人間にとっては「分からない」と言うことだ。ただ「難思」は、「分からない」ことが、思いの遮断であり、「分からない」ことに対する無念が残る。つまり、「分からない」ことに対して、怒りを覚えるのだ。「分かりたい」のに、「分からない」のは、対象が難し過ぎるからじゃないか、あるいは、自分の努力が足りないからじゃないかと怒りをぶつける。対象にぶつけるか、自分自身にぶつけるかはともかく、両方共に怒りをぶつける。そして「所詮、分からないなら、分かることをやめた」と「分かろうとすること」そのものを放棄してしまう。これが「難思」の「分からない」である。
一方の「難思議」の「分からない」は、「分からないで安心した」という「分からない」である。「分からなくてよかった、もし分かったらとんでもないことになっていた」という「分からない」である。変な言い方だが、「分からないということが、分かった」ということだ。「難思議」は、何から何まで「分からない」のだが、「難思」の「分からない」は部分的に分かっている中での「分からない」だ。自分は「分かっている」のだ。「分かる」能力もあり、「分かりうる」し、「分かっていた」から、「分からない」対象が許せないのだ。
「難思議」は、「何から何まで分からない」ということだ。解説すれば、「いま・ここ・私」の意味が分からないのだ。「いま・ここ・私」が成り立つための背景は、「分からない」。なぜ〈いま〉なのか、なぜ〈ここ〉なのか、なぜ〈私〉なのかが分からない。
そもそも自分の名前は、自分の付けた名前ではない。他者(親など)が付けたレッテルだ。名づけられる以前の当体は、何だ。本当は名前などないのだ。その当体も、何億年も掛けて当体となってきた。地球上にいのちが生まれたのは、三十八億年前のことだと言われている。当然、それ以前があるのだ。そうなると、その当体がいま、ここで呼吸をするためには、少なくとも三十八億年が掛かっていることになる。こんなに凄いことが「いま・ここ・私」で起こっているのだ。
親鸞が「浄土往生」という物語(ナラティブ)で語るのは、その「いま・ここ・私」のことなのだ。決して、死んでから往くところが浄土ではない。そんな未来の話をしているわけではない。親鸞が見つめているのは、〈いま〉以外にはない。
その〈いま〉が「浄土」なのだ。
いつも言うことだが、そうは言うものの、人間は〈いま〉を生きることができない。人間にとっての〈いま〉は、すぐに「過去」に飲み込まれてしまうからだ。だから、厳密な意味では、人間は「過去」しか生きることができない。だから、人間が生きることのできない場所を「浄土」と言う。生きることができないと気づかせる、〈いま〉が「浄土」なのだ。
これは「阿弥陀」と同じ構造になっている。「浄土」も「阿弥陀」も、人間には「分からない」のだ。
この「分からない」がご利益として、人間に関わることを「難思議」と言う。阿弥陀さんが、「分からなくさせているから、分からない」のだ。だから、「難思」の「分からない」から入って、「難思議」の「分からない」に抜けていかねばならない。
「何から何まで分からない」は宝だ。「何から何まで分からない」から、「いま・ここ・私」が新鮮に復活してくる。「分かること」は行き詰まるのだ。