自分が止まると、周りが動き出す

自分が動いていると、周りが動いていることに気付けない。一旦、その動きが止まってみれば、周りが躍動していることに唖然とする。新幹線の車窓から、外の景色を眺めれば、景色はドンドン移り変わっていく。田んぼで作業をするひとが一瞬眼に入るが、アッという間に視界から消えていく。あのひとと、恐らく一生の間に出会う縁は、もはやないだろう。あのひとにも、人生という長いドラマがあるに違いない。しかし、私はそれを知るよしもない。
 自分が動いていると、〈真実〉を見ることができないと、仏教者は考えて、その動きを止めようとした。サンスクリット語の音写で「奢摩他毘婆舎那(しゃまたびばしゃな)」という。意訳では「止観」という。「奢摩他」は「止」であり、「毘婆舎那」は「観」だ。こころの動きを止めて、そのこころをありのままに観ることだ。
 まあ結論を言えば、人間が自分のこころを「ありのまま」に観るなどということはできない。こころは常に動いているものであって、それを止めるなどということはできない。止めたと思っても、それは一瞬のこころの動きを写し取った写真の一コマのようなものだから、「ありのまま」に観ることはできない。
 そうは言うものの、他力って言うのは、「止観」だなと思った。思いを止めることなくして、動いているままを観る。自分から言えば、すべては「止まっている」。目の前のパソコンは止まっている。一ミリも動かないで、そこに置かれている。それに気づいたら、時間が逆流し始めた。止まっていることに気づいたら、周りが動いていることに初めて気づく。
 止まっている事物の背景を、つまり成り立ちに思いが行く。パソコンという事物が、パソコンという事物になるまでの、すべての歴史が立ち現れてくる。それはパソコンに限らず、目にする事物すべての背景に思いが行く。
 空気も、眼には見えないけれども、木々が出した酸素で出来上がっている。空気の背景は木々であり、それなくして自分の存在も成り立たないことに思いが行く。すべては「他力」の賜物として、有った。「他力」が躍動していた。
 何事かを作為して、〈いま〉から動こうとすると、止まった〈存在の零度〉からズレてしまう。人間は作為の生き物だから、それを止めることもできない。作為は作為ではたらいているのが「健康」なあり方だ。それをそのままにして、物事の本質を凝視してみたら、「向こうから」流れが逆流してくる。こちらから行こう、掴もうとすると逃げていくのだが、それが「止まって」みれば、向こうからの流れが動き出す。それが「他力」という言葉が生まれてきた背景ではないか。
 作為を止められるだろう、という思いを「自力」と言う。しかし、〈真実〉は止まっているのだ。止まっている一点が成り立ったとき、「向こうから」逆流してくるものに蹂躙される。それが「他力」だ。
 真宗には「行」がないと言われるけれども、その見方は、「自力」的な見方だ。〈真実〉は、それが破れ、「向こうから」逆流していることに驚くことだ。つまり、「行じていないときがなくなる」ことだ。つまり、すべては「自分の思い」からは始まらないということだ。「作為」すらも自分から出発しない。〈真実〉は常に「向こうから」だ。すべてが「行じられている時間」となれば、「自分」が「行じている時間」と「行じていない時間」との差は解体される。
 その「行じられている時間」を、『歎異抄』第十三条では、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」と表現している。自分の行為の始発点を「自己」に置かない。「さるべき業縁」と言っている。「さるべき業縁」とは、「そのように思い、あるいは行為するような必然性がやってきたならば、その必然性に蹂躙される以外にない」という意味だ。それを批判するのが、「本願ぼこり」を戒める人々だ。「本願ぼこり」とは、阿弥陀さんは悪人を救って下さるのだから、あえて悪事を犯すことで、阿弥陀さんに救ってもらおうと心掛けることだ。これは歴史的には、公序良俗を乱すことになり、社会の秩序を護ろうとする人々によって弾圧された。正気に戻ってみれば、「本願ぼこり」」を非難するひとのほうが「正しい」と思えてしまう。しかし、『歎異抄』は、「本願ぼこり」を批判する人々を、逆に批判している。
 親鸞が見ている人間存在は、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」である。ここでは、人間存在の「生業」にひかりを当てているが、それは「生業」だけのことでなく、「悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえ」であり、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業」という微細なこころまでが念頭にある。ほんの些細な思いであっても、それは「業縁」という「避けざる必然性」の作用である。
 それは、人間存在の深層における〈真実〉だ。樹に譬えれば、根っこのところの問題だ。この根っこの問題を、枝葉で云々してはいけない。つまり、根っこの〈真実〉を見て、枝葉は、「それはすべて自己弁護になるじゃないか」と非難する。「本願ぼこり」を非難するひとの視座はここにある。枝葉の次元は、自分の行為や思いは自分でコントロールできるものだ、またそうしなければならないと思っている。親鸞は、それは枝葉の次元の話で、深層の〈真実〉を見誤っていると批判する。
 だからと言って、「本願ぼこり」の人々を全面的に肯定してはいない。確かに「邪見におちたるひと」と批判している。「邪見」とは、「みずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもう」(第11条)ことだ。つまり、これをすれば往生のためのプラスポイントと考え、これをすればマイナスポイントと考えるのだ。それだと、自分の行為の可否が救いを左右することになり、阿弥陀さんに全託してはいないことになる。「本願ぼこり」のひとは、「悪」に拘泥し、「本願ぼこり」を批判するひとは「善」に拘泥している。
 それらは枝葉の次元のことであって、深層の〈真実〉は、「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ」である。
 「自己弁護」でよいのだと肯定するのも、また「自己弁護」だから駄目だと否定するもの、両方とも、「業報にさしまかせて」はいないのだ。「~する」ということに価値を置こうとするこころの構えが解除され、つまり「止められ」れば、おのずと「~されている」が動き出す。「~されている」に身を任せることが、「業報にさしまかせる」である。
 そうやって〈いま〉の背景に眼がいくと、自分はこの世に生まれる始発点以前から、「さしまかせて」いたことに驚嘆する。〈いま〉とは、永遠の過去へと自己を連れ戻すためのステージだったのか。