憶念の坩堝

親鸞は「ここをもって(斯以・是以)」という言い方を、全著作の中で三十九回も使っている。いままでの文章をまとめる意味で使うのだが、それが前文とは、次元を超えたまとめかたをする。1+1=2というまとめかたならば納得できるのだが、1+1=∞というまとめ方だから、困惑する。
 親鸞は論理的に分析し、統合して「ここをもって」と結論づけてはいないのだ。親鸞が憶念している意味界があって、その意味界から、いきなり「ここをもって」と結論づける。親鸞にとって、その意味界は、「弥陀界」であり、「永遠」である。だから、いつでもその意味界から言葉が生まれてくる。生まれてきた言葉は、自分自身の「内部」から生まれてきたのだが、それは自分の意識的な作為を超えた世界だから、自分の支配できるものではない。それだから、生まれてきた言葉に親鸞自身が感動させられている。自分の内部から出てきた言葉に、親鸞自身が感動する。
 「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」(『歎異抄』第16条)が、その感動の表白である。
 いま「自分の内部」と語ったが、「内部」とは何だろうか。「内部」などというものがあるのだろうか。自分の身体や脳を「内部」と言うのだろうか。それは「内部」のものなのだろうか。「内部」と言っているだけで、どこからどこまでが「内部」なのだろうか。ただ「自分の内部」から出てきたものではないと言わせるものがはたらくだけだ。つまり、それを「外部」と呼び、さらに擬人化して「阿弥陀さん」と呼んでいる。
 まあそんなに大げさな言い方をしなくても、「作品は作者を超える」と一言で言えばよいことだ。小説家は、自分の「内部」を「外部」に表出する仕事だと思われているが、そうではない。小説家が小説を書いている現場は、作者自身が作者ではなく「読者」になっていると言われる。つまり、小説のシナリオ自身が動き出し、作者に筆を走らせていくのだ。その場合、作者はシナリオが赴くままに引きずられていく。そこには作者などという「主体(内部)」はなくなる。つまり自分は作者ではなく、一読者としてシナリオの創作するままに表現させられている。だから、作者ではなく「読者」なのだ。
 当然、親鸞も「作家」だから、そういうことが表現活動の現場では起こっている。その表現活動の現場においては、もはや「主体(内部)」などという意識は消えている。表現を生み出す活動そのものが動いているだけであって、結果的に生み出された文字群だけが、「死骸」として残っていくだけだ。ジュリア・クリステヴァが、「書かれたものを眺めるのは、死を見つめることなのである」(『テクストとしての小説』)と言ったのは、まさに〈真実〉を言い当てている。
 それは「死骸」だが無意味な滓という意味ではない。その「死骸」が再び息を吹き返す作用を持っているからだ。それが「読み」であり、読者の内側で再び「意味」として復活する。あえて「文字」を「死」と表現するのは、「文字」は微動だにしないからだ。紙に書かれた「文字」が動き出したら、それはオカルトだ。読者は、その「死骸」から、無限の「意味」を汲み取ろうとする。
 あえて「死」と言わなければならないのは、「作者の意図」を詮索させないためだ。「読者」は、「死骸」である文字から逆算して、「作者の真意(意図)」を詮索しようとする。しかし、そんな「作者」は存在しないのだ。「作者」の内部では、作者自身が「読者」とさせられているからだ。「本当の作者」などはいない。「読者」が、それを詮索しても無意味だと教えるために、あえて「死(死骸)」と言うのだ。
 親鸞の残した「死骸」を見つめることによって、「読者」は「意味」を詮索する。そしてやがて詮索の無意味さを知らされたとき、「読者」自身の内部で創造活動が動き出す。それらがやがて再度、「死骸」として結晶化され、大乗仏典という厖大な「作品」が現れた。いわゆる、それが「お経」が無限に、この世に生み出されるシステムだ。
 親鸞を「読者」とさせた、「憶念の坩堝」だけがあるのだ。それを「浄土」とか「涅槃」などというメタファーで語る。
しかも、親鸞は、決してそれを「過去形」では語らない。いかにも、「死後」とか「当来」という段階論で語る。それは「いま」成り立つのではなく、「浄土」に往ってからだと。なぜ「いま」を拒否するのかと言えば、「浄土」を過去の出来事にしないためだ。厳密な意味で言えば、人間にとって、「現在」は存在しない。「現在」は、必ず「過去形」としての現在でしかない。つまりは、「浄土」を過去の出来事にしないための苦肉の策なのだ。
 「憶念の坩堝」は、過去でも未来でも現在でもない。それらを超えているものだから、親鸞とも釈迦とも、人間は対話することが可能なのだ。こうしているいまも、「憶念の坩堝」は創作活動を続けているに違いない。表現され「文字」となって現れ出たときには、「死骸」となる。「死骸」となった「文字」は、読者の餌食になる。つまり、読者が、どのように受け取ろうとも、それに対して異議申し立てができない。「文字」が〈真実〉のフォルムから生み出されたものであっても、誤解を受ける。それは仕方ないのだ。「死骸」なのだから。それであっても表現活動は止まらない。人間が言葉の生き物である以上、止まらない。