「万歩計」から行き着いたところは

やはり、「やり甲斐」というものが人間を支える面も大きいと思った。近頃、スマホに入っている「万歩計」アプリを使っている。これを使うと、一日の歩数が計算され、グラフに表示される。このアプリを使うまでは別段、歩数などは眼中になかった。だから、いつも通りの日常生活だった。しかし、このアプリを使い始めたら、「歩数」というものが、やたらに目に付きだした。
 まあ自分の一日の歩数の目安を設定できるので、その目安を、どのくらい達成できたかが可視化できるのだ。こうなってくると、その目標に達するまで歩けたのかどうかが、結構気になる。まあ使い始めて分かったのだが、自分が日常生活でも、結構歩いているという事実だ。散歩やウオーキングをしているわけでもないのに、約五千歩は歩けていた。
 世間では、一日一万歩と推奨しているから、とてもそれには敵わないが、まあまあの実績だと思った。それにしても、「歩数」というモノが可視化されデータ化されると、俄然、歩くことに対して、「やり甲斐」が生まれてきた。一日の歩数を目にするのが楽しみになってきた。その半面、達成できなかった日は、ちょっとガッカリした。
 そんなとき、ふと柳澤桂子さん(生命科学者)のことを思い出した。彼女が順調に科学者の道を歩んでいたとき、原因不明の難病に罹られたと言うのだ。もう一日中、ベッドから起き上がれないような日々が続いたと。まるで、出口の見つからないトンネルの中をひたすら歩くようなものだろう。そのときの暗澹たる気持ちは、当然、ご本人でなければ分からない。ただそんな日々を、何を頼りにして生きたかということをお聞きした。それは日々服薬する薬を何時に飲んだか、それを日々、淡々とノートすることだったと。朝、昼、番と薬を飲む。それをいつ飲んだかをメモるのだ。それが唯一、彼女の「生き甲斐」を支えたそうだ。そんなことかと、思われそうだが、「限界状況」にあるひとにとっては、それでも「生き甲斐」を支えることになるのだ。
 彼女の状況は、まさに「限界状況」だった。ただ人間は、どのような状況になろうとも、何某かの「生き甲斐」を、生から汲み取ろうと足掻くものなのだと教えられた。やはり、どこまで行っても、人間は「意味」の生き物なのだろう。
 「生きる意味」など、普通は考えない。別段、日常生活が順調にいっているひとにとっては考える必然性がない。そんなことを考えなくても生きていけるのだから。ただ日常生活のどこかに亀裂が生まれたひとにとって、目の前に立ち現れてくるのが「生きる意味」なのだ。この亀裂が小さいうちはまだよいのだが、亀裂が巨大なクレバスにまで大きくなると、ものすごく厄介だ。「生きる意味」を追い求めていくと、「必ず死ぬのになぜ生きるのか」という大問題に行き着いてしまうからだ。これは大人に聞いても、誰に聞いても答えのでない問いだから、ものすごく厄介だ。
 この問いを問うことをやめるか、あるいは保留にするかしか対処のしようがない。仕方なくというか、逃れられずというか、その問いに同伴するしかない。ひとが「生きる意味」を問う場合には、必ず、「自己」が分裂している。「見る自己」と「見られる自己」と分裂し、「見る自己」が「見られる自己」を評価する形になっている。つまり、「見る自己」が一番気にしているのは、「見られる自己」の「意味(価値)」なのだ。「こんなことをやっていて生きる意味があるのだろうか」と考えるとき、必ず分裂が起きている。
 まあ分裂は、意識が正常にはたらいていることだから、別段悪いことでもない。しかし、分裂↓後の「評価」が問題なのだ。「評価」は、「欲望」が起こすものだからだ。お気に入りの評価は受け容れ、お気に入りでなければ、拒否するのだ。
この「欲望」を「貪欲(とんよく)」と言う。「貪りの欲望」だ。「貪欲」にとって、「死」はお気に入りではないので拒否される。
 一人称の「死」は誰も体験できないのに、「死」を自明のことと評価して、「死」を拒否する。拒否しているのは「貪欲」なのだ。私は「貪欲」は私の一部分であって、私全体を包み込むことはできないと思っている。だから「貪欲」が、「生きる意味」は何かと問うても、その問い方に騙されない。そもそも、その問い方そのものが、「貪欲」の騙しだからだ。
「生きる意味」があろうがなかろうが、そんなことは知ったことかと嘯いてしまえばよいのだ。
 私は「見られる自己」がどのように評価されようとも、それにお構いなしだ。そして、その度に「超越」と対面する。本質的に、ひとは皆な「超越」と対面して生きているのだ。そうなのに、「評価」にばかり眼がいってしまう。たとえ「評価」に眼がいっても、その都度、「超越」に眼が移ればよい。それは「思い」を超えた世界であり、時間と空間を超越した零度だ。
 ひとは〈存在の零度〉から一ミリたりとも動いてはいないのだ。「いま・ここ・私」から動くことはできないのだ。ここだけが「貪欲」の魔の手から逃れられる一点だ。
 この一点が見つかれば、この世を遊ぶという余裕が生まれる。万歩計の歩数で一喜一憂するのも「娑婆の遊び」だろう。