仏智を疑惑するゆえに 胎生のものは智慧もなし 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとえなり

今朝のお朝事の和讃は「仏智を疑惑するゆえに 胎生のものは智慧もなし 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとえなり」だった。

いつもながら、これらの「疑惑和讃」はいいなぁと感じる。他の和讃に比べると、自分のことを言い当てられているように身近な感じがするからだ。まあ淨土和讃や高僧和讃も、それなりに特徴があってよいのだが、特に疑惑和讃は、大好きな和讃群だ。

ただ「愚禿悲嘆述懐和讃」は、節符(節)が付いていないので、通常は称えることがない和讃だ。これは親鸞聖人ご自身の内省的和讃だから、大勢の人数で称えるには相応しくないとの判断らしい。でも、これにも節符を付けてくれないかなと思う。称えることで、自分の内面に親鸞聖人を体験することができるから、是非やってほしい。もし既に節符があるのならば教えてほしい。それで、もしないようなら、自分で付けてみようかとも思っている。

まあそれはともかく、「仏智を疑惑するゆえに…」と称えてみると、これは自分自身のことを言われていいるように感じる。「お前が仏智を疑惑しているのだぞ」と、自分に迫ってくる。まあ親鸞聖人自身の念頭には、「お前たち」があったか、あるいは「我々」があったか、あるいは「自分自身」があったかは分からない。

私が読む限り、「自分自身の問題」を指摘されているように感じるだけだ。

しかし、「仏智を疑惑する」と書かれているが、本当に仏智など疑惑できるのだろうか。私自身は「仏智」を知っているのか。仏智を知るものは、仏智と同質でなければならない。如来と同質のものだけが如来の智慧を疑惑できる。仏智を完全に知らないなら、仏智を疑惑することもできないはずだ。

そんなことも考えずに、「自分は仏智を疑惑しているのだな」と考えてしまう。それは傲慢というものではないか。親鸞聖人はいかなる気持ちで、この和讃を作られたか。親鸞聖人とて、仏智を完全に把握しているわけではない。それなのに「仏智を疑惑するゆえに…」とおっしゃる。これは、仏智を疑惑などできないのだが、そのことも知らずに、仏智を疑惑で切ると思い込んでいる傲慢さを教える和讃ではないか。

だから「疑惑しているんだぞ!」と指摘されると、自分の側に落ち度があるように感じてしまう。そして、なんとか仏智を疑惑しない人間になろうとしてしまう。それこそ『歎異抄』の意味空間で言えば「善人発想」になる。 

本当は、「疑惑」することも「信」ずることとも無縁な自分であることを教える和讃なのだろう。つまり「疑惑」からも「信」ずることからも解放して下さる和讃なのだろう。こういう信仰をなんと命名するのか、まだ名前がない。「真宗」と命名されてしまえば腐ってしまう信仰なのだ。