『〈真実〉のデッサン6』を出版した

 凝りもせずに、この度、『〈真実〉のデッサン6』を発刊した。デッサンシリーズ第六弾だ。内容は、このブログに載せている文章をリメイクし、「読み物」としたものだ。ブログはパソコンやらネット空間にある抽象的なものだが、それを紙の上にインクを載せて本という具体性に定着させると、また異質なものとして生まれ変わる。抽象から具象へと変形させることで、より具体的に、身近になった感じがする。
 改めて、この本の題名に感動している。画法のデッサンは、ひかりを描くことができない。ひかりの部分は、鉛筆で描いた影の部分を、あえて削除することで表現する。だから、ひかりを表現するためには、影の部分をより鮮明に、より黒々と塗らなければならない。黒々と塗ることで、影の部分に反比例してひかりの部分がより鮮明に浮き上がる。
 小生の書いた文章は、鉛筆の部分、つまり影の部分だ。決して、ひかりである〈真実〉の部分を表現してはいない。ひとは、ひかりの部分を描きたくなるものだ。ひかりの部分を表現したいという願望があるから、必ずそうなる。またそういう願望がなければ、「表現」という行為は生まれない。しかし、ひかりの部分を描いてしまうと、それは「下手くそなデッサン」になってしまうのだ。
 そもそも、自分はひかりの部分である〈真実〉を知っているのか。そう、問うものがある。〈真実〉を知ったような顔で書いているが、果たしてそれは〈ほんとう〉かと。〈真実〉を知っているどころか、まだ、指一本も〈真実〉には触れ得ていないのではないか。
 そう問われることで、辛うじて、安心してどこまでも「表現」を尽くすことができるのではなかろうか。もし、自分の書いた文章が、〈真実〉を、そのまま表現しているものだと考えたならば恐ろしいことになる。本来、「不可称・不可説・不可思議」なる〈真実〉を、「可称・可説・可思議」だと錯覚することになるからだ。だから、自分が、「これこそ〈真実〉だ」と思ったとしても、それは錯覚なのだ。錯覚だからダメなのではなく、錯覚だからこそ、安心して表現できるのだ。
 今朝のお朝事の和讃は、「疑惑和讃」の「不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」だった。親鸞ほど「疑惑」を大事にしたひとはいないかも知れない。「疑惑」は疑いということだが、疑うには疑うだけの理由がある。それが「罪福信」である。これをすれば福(プラス)になるだろう、これをしなければ罪(マイナス)となるだろうと評価する損得勘定のこころである。私はこれを「利害損得心」と名づけているが、このこころのみを信頼しているので、阿弥陀さんなどは信じていないと、親鸞は言うのだ。
 この和讃を読むと、つくづく自分は「利害損得心」だけを信じているのだなと理解できる。親鸞は、たくさんの和讃を書いているので、いろいろなことを言っているが、まあ「阿弥陀さん」や「浄土」を讃嘆しているものが多い。だから、向こう側の話が多くてピンと来ない。それに比べて、「疑惑和讃」はこっち側、つまり自分のこころのあり方を問題にしているので身につまされる。よくよく阿弥陀さんを疑っているのが自分だなと自覚させられ、暗い気持ちになる。
 それで分かったような気になってしまう。その程度で、「疑惑和讃」を分かったような気になり、そこに留まってしまう。果たして、親鸞の表現の射程はその程度のものなのだろうか。
 親鸞は、分かったような気になる知り方を「慚愧」と考えていたのではないのか。人間が分かる程度の知り方は、やはり、「慚愧」止まりだ。つまり、疑惑をしている自分を情けない自分、ダメな自分と評価して罰する。それで分かったような気になってしまう。評価する者は、評価される対象よりも上位にいなければならない。対象化とは、対象と自分とが分離され、距離を取っていなければ成り立たない。顕微鏡でミクロの世界を観察(対象化)するとき、レンズと対象とがくっ付いていたのでは観察はできない。レンズと対象とがある程度の距離を取らなければ見ることができない。
 自己を対象として「観察する自己」とは、自己を下に見ている自己のことであり、この自己にひかりが当たっていない。「観察する自己」とは「慚愧の自己」だ。
 つまり、〈真実〉は、それで分かったような気になっていてはダメですよと批判してくる。そして、いままで「慚愧の自己」が感じていた世界を脱する。つまり、「疑惑」をダメだと感じていた世界を脱する。脱してからどこへ連れて行かれるのだろうか。それは分からない。少なくとも「慚愧の自己」が引き起こす「評価」という世界を脱することはできる。
 「疑惑」だろうが、「煩悩具足の凡夫」だろうが、自分の分かったような気になる程度の分かり方しかできないのだ。それでよいのだと自己肯定もできず、それではダメなのだと自己否定もできない。その両方から解脱させられる。
 だから、〈真実〉などは誰にも分からない。分からないものを表現することなどはできない。そうなってくると、私がこの本を出版する意味はどこにあるのだろうか。おそらく、その問い方に問題があるのだろう。その問い方だと、「意味があるかないか」という評価の答えしか出て来ないからだ。おそらく、意味があるのかないのか、それは自分に分からないということでしかないのだろう。
 分からないものを分からないと表現することで、いままで分かっていたと思っていたものが、分からないと、改めて、新鮮に分かっていくことが起こるものだ。人間が持っている評価の射程をはるかに超えて、〈真実〉はあるのだ。それが『歎異抄』(第十六条)の「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし」という表現が生まれてきた源泉に違いない。そこには「ただほれぼれと」という感懐しかないのだ。