無秩序と混沌が母胎

 昨日は日曜日で法事が、何件もあった。相変わらず、小生は読経をする。要するに漢字の羅列を大声で読む。これも一苦労で、なかなか大変。腹筋を使わないと、長時間の発生は難しい。読経は、ある種の筋トレでもある。
 昨日は、赤ちゃんたちの多い家族で、これはさぞかし騒がしい法事になるだろうと予想していた。ところが終わってみると、左程、煩くもなかった。予想に反していたので、ちょっとガッカリした。ガッカリしたというのも、小生は、読経の声と、赤ちゃんの泣き声がコラボして、何が何やら分からなくなる法事が大好きだからだ。そこには無秩序と混沌が渦巻く。あれが、法事の元型かも知れないと思う。人間の表層の意識は「意味」を求めて彷徨う。その求めをはぐらかし、「無意味」への扉を開ける。そして、深層からやって来るイメージに身をまかせる。
 まあ、読経を聞くと、脳にアルファー波が出るという実験結果もあるので、赤ちゃんも癒やされて眠たくなったのかもしれない。その効果を狙って、伽陀(かだ)を、ちょっとホーミー風に称えてみた。ホーミーとはモンゴルで行われている発声法で、これもアルファー波を引き出すから、読経とホーミーのダブルでやってみた。その効果だろうか、赤ちゃん達は思いのほか静かだった。
 親御さん達に、「もっと泣かれると思ったのに、そうでもなかったので、ちょっとガッカリしました」と話したら、親御さん達は笑っていた。だいたい、読経は漢字の羅列だから、大人が聞いても意味が分からないように出来ている。この「分からない」ところがよいのだ。お経の文字にはちゃんと意味があるのだが、読経のときには、意味など考える必要もない。ジャズかクラシックでも聴くように、読経の響きに身をまかせればよいのだ。そして、頭に浮かんでくる様々なイメージを味わうのだ。これこそが「法(ダルマ)」の体験だ。
 だから、読経をする私は、あくまでも伴奏者でしかない。伴奏を聞く人々こそが法事の主人公であり、彼等の頭の中で、初めて「法(ダルマ)」が響きとなり、生まれ始める。それは取り留めも無い「思い」かもしれないし、あるいは故人のことであるかもしれない。それが、どのような内容の「思い」であっても、それは「自分」が作為的に考えたことではない。言わば、「自分」は受け身であり、「自分」の中に深層から浮かび上がってきた「思い」と、生まれて初めて対面する。だから、「自分」が考えようとしていたこと以外のことが、当然、展開する。
 この「思い」は一期一会の「思い」であり、そのとき浮かび上がり、やがてまた消えていく。如来如去で、如から来て如へ去っていく。
 それでも、読経は疲れるので、「また法事をやらねばならないのか」と愚癡も出る。愚癡の出る根拠は、すでに「法事」を知っているという「思い」があるからだ。自分は「法事」と言えば、「法事」を完全に知っていると思っている。また門徒から「法事をお願いします」と電話があれば、門徒も「法事」とは何かをすでに知っていて頼んでくる。つまり、読経をする方も、読経を聞く方も、「法事」とは何かを知っているという前提で会話が進んでいく。しかし、果たして、その前提となっている「法事」とは何なのだろうか。
 大人なのだから、「法事」の手順などは知っている。読経があり、お焼香があり、お布施のやり取りがあり、法話もあり、墓参があり、御斎(おとき)つまり、会食があり、飲酒もある。久々に会う身内との近況報告に花が咲くこともある。それらの全体が「法事」なのだが、それが「法事」のすべての意味ではないと、訴えてくるものがある。
 それは何なのだろうか。そう訴えてくるものによって、私は救われる。本質的に「法事」とは何なのかを、人間は知らないのだ。分かっていることをすることほど詰まらないものはない。未知の出来事だから、「法事」もやりがいがあるのではないか。
 果たして「法事」とは何なのだろうか。それは常に未知未開の何かである。
 人間は、ついつい「法事」に意味づけをして済ましてしまう。門徒は、亡き親のためとか、先祖の供養のためとか、寺側は、教化のためとか、あるいは経営のためとか。様々な意味づけをして、それで済ましてしまう。その全体を「〈無・意味〉」だと訴えてくるものがある。それこそが「法事」にいのちを吹き込む息吹だ。
 河合隼雄さんが、面白いことを述べていた。
 それは臨床心理学を学ぶ学生に向けてのお話だ。「一人の五〇歳ぐらいの老人が相談にきた。聞いたら名前もはっきりわからない。住所もわからない。生活史を調べたら自殺未遂を二度している。恋愛は失恋ばっかりで、いまだに独身。養子はいるらしいけれどけんかばかりしている。そういう人がきたらどうする?」と。(『心理療法対話』岩波書店)
 心理学者を目指そうとする学生だから、こんなクライアントが来たら、何とか「普通の暮らし」ができるようにカウンセリングをして「正常に」戻してあげたくなるのではないかと、問いかけている。そこで河合さんは、この男性とは、実はベートーヴェンなんだと打ち明ける。果たして、「心理療法でもして一つ一つ解決していったらどんな曲をつくるんだろうか」と問いかける。
 さらに、「私が彼に会って、何をしたらいいのかというのは、実はものすごく難しい話です。われわれの仕事は単純に思えてすごく難しいのだ」と続ける。つまり、彼は心理療法は、how toの知では通用しないことを述べている。だから、心理療法をして、ひとが「普通の生活」を送れれば、それでよいかどうか分からないという知を開いている。もしベートーヴェンを「普通」のひとにしてしまったら、果たして、名曲を残せる作曲家になったかどうかは分からないからである。
 これは、心理療法に限定して述べられているが、物事の本質を言い当てていると思う。私が問題にしてきた、「法事」もそうだ。「法事」がhow toの知に傾けば、それは「法事」ではなくなる。むしろhow toの知が宙づりにされることによって、何事かが生まれるのだ。
 しかし、how toの知は、ある意味で、カウンセラーを安心させる。いま自分がしていることが意味のあることであり、正しいことだと自信が持てるからだ。ただ、そのときクライアントは関心の外に置かれてしまう。カウンセラーは安心できるけれども、クライアントは不安のままだろう。だからカウンセラーは、極力、how toの知をはたらけないようにしておかなければならない。何事かが生まれるためには、無秩序と混沌が必要なのだ。それらを母胎にして〈真実〉は生まれる。
 無秩序と混沌を生むために、「読経」が必要だし、赤ん坊の泣きじゃくる声が必要だったのだ。