「内界」の大行

〈真・宗〉は、「動かない」という一点をもって、「内界」において果てしない行をしていく教えだ。「動かない」というのは、身体的行為をしないという意味だ。親鸞は、それを「自力の行」と言っている。それで、人間から身体的行為を奪う。さらに、「する」という意志性をも奪う。つまり、「念仏」という発語行為をすることによって、将来何事かの成果を得ようとする作為性を抹殺する。
 そして、「する」が奪われると、その一点に、「ある」が誕生する。まど・みちおさんの「どういていつも」だ。
太陽


そして



やまびこ
ああ 一ばん ふるいものがかりが
どうして いつも こんなに
一ばん あたらしいのだろう (『まど・みちお詩集』角川春樹事務所)
 まどさんは、「太陽」や「月」の、「ある」の一点に立ち会った。その一点に立ち会ったから、「どうして いつも」という疑問が生まれたのだ。「ある」に立ち会うのは、つねに〈いま〉だ。その「ある」の一点に立ち止まってみれば、その「ある」を成り立たせてきた「ふるいもの」が立ち現れてきたのだろう。〈いま〉、「ある」に出会うと、その「ある」が「ある」として成り立たせられてきた世界に陶然とする。
 「ふるいものばかり」とは、自然現象ばかりではない。実は、「ある」の一点に立ち会っている「自分自身」の成り立ちへと目が開かれる。この「自分自身」こそ「一ばん ふるいもの」なのだ。古いものと、古いものとが、〈いま〉出会って火花を散らす。
 だから、「ある」が見つかると、「ある」が輝き出す。そして、「ある」を「ある」たらしめているはたらきが動き出す。そして、このはたらきの発生源を問う、という「行」が始まる。〈真・宗〉は、外側から見れば、まったく動いていないように見えて、その内面では、無限の運動、つまり「行」が躍動しているのだ。親鸞は、それを「憶念」という言葉で表したのかも知れない。身体的行為のみを「行」だとすると、二十四時間はすることができない。寝ているときは動くことができない。
 しかし、内界の「行」は二十四時間することができる。いわゆる、無意識がすることも含めるから二十四時間の行が成り立つのだ。それを「無意識」と呼んではいけないのかも知れない。「無意識」であれば、決して覚醒した意識で対象化することはできない。「無意識」はどこまでも仮説である。我々が「阿弥陀さん」を「阿弥陀さん」と命名するのも仮説であるのと同じだ。
 二十四時間の「行」とは、意識を当てにしていない。意識も含めて無意識のはたらきそのものの展開だ。
だから、もはや表層の「意志」などを当てにしない。それで親鸞は「大行」と言ったのではないか。他にも「大願業力」とも言っている。だから、「意志」で「する」ことに価値を見出さない。「する」は「させられて」「する」のだから、「大行」の運動だ。「大願業力」とは、何と迫力のある力のこもった言葉だろう。
 道元が、念仏はカエルの鳴き声と同じだ、というようなことを言っている。外側から見れば、そういうふうに聞こえても仕方がない。それを否定する気持ちはさらさらない。ただ、どんな状況や状態の中で発語される「南無阿弥陀仏」であっても、それが「大行」と受け止められるかどうかだ。その受け止め方一つが、自己を「信心の行者」として規定する。あらゆる行為の発生源を「自己」に置かないのが「信心の行者」だ。
 「自分」という静止画はあったとしても、本質は流動的だから、必ず流れていく。つまり、「自分」などという固定的なものはどこにもない。あらゆるものが向こうから内界へと流れ込んでくる。内界が阿弥陀さんの遊び場となる。
 もし「自分」というものがあるのならば、それは「阿弥陀さんの遊び」を眺める視線のことだろう。
 親鸞は「念仏」を「不可称・不可説・不可思議」(『歎異抄』第十条)と言う。称えることも、語ることも、考えることも超えていると。だからと言って、称えることも、語ることも、考えることもやめたとは言っていない。逆に、徹底的に、生涯、考え抜いている。それはもちろん、「考えさせられて」、「考えている」のだから。
 「ある」の一点に立ち会っているから、無限の思考と無限の言葉が生み出されてくる。「果てしない行」とは、「考える」ということだった。これほど凄い行はない。現代では「考える」ということが、ものすごく軽く考えられている。しかし、「考える」という行為は、〈永遠〉を発生源とし自分にやってくる。どんな些細なことを「考え」ようとも、それは〈永遠〉を背景として起こっている。それが「果てしない行」の実践である。
 まあ、内界は外界と同じ広さを持っているから、果てしないのだ。阿弥陀さんは、あらゆることを、「もう済んだ」ことにさせないのだ。なぜ「もう済んだ」ことにさせないのか。つまり、「まだ済んでいない」ことに満足させるのかと言えば、それは、「もう済んでいる」からなのだ。ゴール(永遠)に達しているから、〈いま〉、スタートが切れるのだ。
 まったく矛盾している。山登りで言えば、もう頂上にいるのだ。頂上にいるから登山が始められるようなものだ。解かなければならない矛盾もあるが、〈真実〉を訴える矛盾もある。〈真・宗〉とは、矛盾が解決して救われる教えではなく、矛盾が矛盾のままにあって、それがそのまま〈真実〉だとうなずかされる教えである。