恩徳讃

今朝のお朝事の和讃は、報恩講和讃の「如来大悲の恩徳は…」だった。

まあ、これはチョー有名な「恩徳讃」だ。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

私は以前から、この「報ずべし・謝すべし」は「絶対命令」と受け取らなければならないと主張してきた。文法的には「命令形」だ。しかし、オーソドックスな解釈だと、これは「当然」の意味で受け取っているものが多いようだ。「当然」とは、「やがて必ずそうなるだろう」という意味だ。つまり「やがて身を粉にしても報ずることができるようになれるだろう」だ。あるいは、表面上は「命令形」で受け取っていても、「報じていかなければならない」、「さあ皆さんこれから報じていきましょう」という「相対命令」になっているようだ。

私は、これは「絶対命令」だと言っている。「絶対命令」とは、決して報ずることのできない存在に対してのみ発せられる命令だ。それで、「当然」や「相対命令」は間違いだと言ってきた。
しかし、今朝、ご和讃を上げながら思ったのは、それも本願の内部だと知らされた。「当然」や「相対命令」は第19願の本願だからだ。「やがて、そういう身になれる」「やがて、報ずることができるようになれるから、報じなければならない」という、「やがて」の世界だ。これは臨終来迎であり、修諸功徳になる。だから「やがて」というのも本願の世界で否定することではなかった。
ただ、これは残念ながら〈いま〉が抜けてしまう。「絶対命令」と受け取る世界は第18願の世界だ。これは〈いま〉から決してズレることがない。

第19願も第18願も、いずれも本願の世界だった。