内面と外面が溶解する

「内面」とは、何か。どこからどこまでが「内面」なのか。宗教は「内面」の問題だと言うが、その「内面」とは何なのか。
 それで『広辞苑』(第七版)を見てみた。すると「1、内部に向いた面。うちがわの面。2,心理・心情に関する面。「――に動揺がある」⇔外面。」とあり、熟語の一つとして「内面生活」とあって、「精神生活。内的生活。」と出ていた。
 やはり、「内面」とは、こころ、精神という意味に解されるのだろう。
 「内面」という言葉の反対語が「外面」だとすると、その「外面」と「内面」を分ける境界はどこにあるのか。
それで「外面」を調べた。すると、「外部に向いた面。そと側。うわべ。うわつら。「――を飾る」⇔内面。――てき【外面的】物事の外部や見かけに関すること。精神的・本質的なものに関しないこと。「――には平静を装う」」とあった。
 「内面」が「心理・心情に関する面」ならば、やはり、「外面的」は「精神的・本質的なものに関しないこと。」と解されるのだろう。我々は日常的にも、そのように使っている。
 大雑把に見れば、精神的なことと精神的でないことは分けられそうだが、厳密に見ると、果たして分けられるのだろうか。精神的なものと精神的でないことの境界はどこにあるのだろうか。例文にある「外面を飾る」とか「外面には平静を装う」はよく分かる。内面では怒っていても、それを顔に出さないとか、内面では動揺していても、それを他人に気づかれないように振る舞うということだ。だが、こうなると、それは「精神的なものに関しないこと」にはならないのではなかろうか。もろに「精神的なこと」ではないのか。
 もう少し突っ込んで考えれば、「外面」とは、「他者の目線で見られた限りのこと」という意味ではなかろうか。「内面」では動揺していても、それを他者に気づかれないように振る舞うとなると、「内面」では精神的な動きはもちろんあるのだが、他者の目線から見れば、何のこころの動きも見て取れないという「外面」が成り立つのだろう。
 自己に軸を据えてみれば、「内面」以外にないのではないか。そしてもっと言えば、〈真・宗〉とは、「内面」と「外面」の境界が溶解することではなかろうか。
 いま思い出したが、西本文英先生は、よく「ご覧のとおり」とおっしゃっていた。他人が私をどのように見ても、それは、「あなたがご覧になったとおりの私です」という意味だ。だから、「西本文英」が客観的に存在するわけではない。見るひとによっては、様々な「西本文英」が存在する。百人いれば、百の「西本文英」が存在する。だから、そのうちの一つの「西本文英」をとって、「西本文英」全体だと断定してはならない。
 受け取るひとにとっては、そのうちの一つの「西本文英」が、「西本文英」全体だと思われてしまっても、「それは私ではない」と否定しない。そもそも、あなたが受け止めた私以外の私は存在しないのだから。
 褒められれば、いえいえそんなに偉いものではありません、と謙遜はしていても、それは社交辞令の挨拶程度のことだ。本当は、偉いものなのか、卑劣なものなのか、自分でも分からないのだから。本質は、自分自身にも、「真実の自己」などは分かっていないのだ。もし、分かっていれば、他人の評価する自己を、「それは私ではない」と否定もできるだろう。しかし、当の本人も「自分とは何か」が分かっていないのだから、他人の評価を否定する根拠もないのだ。「根拠もない」ではなく、その根拠そのものを奪われるのだ。
 親鸞が「非僧非俗」(僧に非ず俗に非ず)と言うのは、そういう意味でもある。娑婆は「僧か俗か」という相対的世界の場所である。娑婆的に言えば、「僧か俗か」のあり方以外にはない。現実の仏教界を批判して、「有僧有俗」だとも言われる。ある時は在家生活をし、ある時は出家生活をすると。親鸞は、その「相対界」を全否定したのだ。つまり、西本文英先生の言う、「ご覧のとおり」という世界へ抜けていったのだ。つまり、「真実の自己」を知っているのは阿弥陀さんだと決着したのだ。
 そうなると、「内面」も「外面」も、ともに外部となる。「外部」とは、自分が知っている限りのことという意味だ。奇しくもサルトルが、「一切の意識は何ものかの意識である」、「凡ゆる意識は、その対象物を措定する」(『想像力の問題』)ということと符合する。私が何かを知っているというとき、その知っているというコトと「意識」が別物ではないのだ。誤解を承知で言えば、私は「鳥」になって「鳥」を知り、「石」になって「石」を知る。サルトルは、それを、「意識は己れ自身を出て、己れを超越する」と魅力的なことを言っている。空の雲を見るとき、私は「己れを超越」して雲を見ているのだろう。
 「一切の意識」を、私はあえて、「外部」と呼んだ。なぜ「外部」と書かせたのか。普通ならば、それは「内部」とか「内面」と書くべきではないのか。しかし、「外」に、つまり自分と距離のあるものでなければ、自分には意識されないから。「外部」と書かせたものがある。それは阿弥陀さんだろう。これが「永遠の内部」だ。私には「不可称・不可説・不可思議」(『歎異抄』第10条)なのだ。だかか、たとえ「浄土」と言おうが、「凡夫」と言おうが、どちらも同じことを語っていることになる。どちらも「永遠の内部」について語っているのだから。「不可称・不可説・不可思議」なるものを、あえてイメージ言語として、「浄土」とか「凡夫」と言っているのだ。
 私は阿弥陀さんを「外部」と表現してみたり、「内部」と言ってみたりするので読み手が混乱する。でも、哲学でも、「内在」と言ってみたり、「超越」と言うではないか。「内在にして超越、超越にして内在」と。そんなニュアンスで受け止めてもらえればと思う。要は、人間に「結論」を与えないということだ。人間は、自分が見たとおりに「世界」があり、見たとおりの「自己」があると思い込んでいる。それを思い込みだと裁断してくれるのが阿弥陀さんだ。人間にとって、「浄土」という言葉も、「地獄」という言葉も、ともに「利害損得心」が見せている幻想なのだ。幻想だと知らせることで、幻想で苦しんでいる人間を、その幻想から解放するのだ。
 まったく違った文脈かも知れないが、谷川俊太郎さんの「そして」が好きだ。
「夏になれば
また蝉が鳴く
花火が記憶の中でフリーズしている
遠い国はおぼろだが
宇宙は鼻の先
なんという恩寵
ひとは死ねる
そして
という接続詞だけを残して」
 この「そして」は、「浄土教」の発生源から生まれてきているように見える。「遠い国」とは、人間が遠くに感じている世界であり、他界でもある。しかし、「宇宙は鼻の先」とは、「浄土」は眼で見るよりも近いところにあると暗示する。しかし、それはひとの死を契機とする。ただ、それは「死ねる」ということを「結論」とはしていない。むしろ決して人間が、「死」という「結論」を握ってはダメだと叫んでいるように受け取れる。
「そして」とは、親鸞が「現生不退」と語った世界そのものなのだろう。谷川俊太郎さんの意図と違っていようとも、私には、そう受け取れる。