貪欲は自分全体を覆えない

「煩悩」は私の一部分ではなく、私全体が「煩悩」で出来ているということだ。それは正しい。それを正しいのだが、それであっても、その「煩悩」は私の一部分ではないかと、思ったのだ。そもそも、「煩悩」の者が、「煩悩」だと「正しく」認識することなどできない。「自分は煩悩の者だ」と考えるのも「煩悩」だからだ。そして、その「考え」は「煩悩」だから、必ず評価の対象になる。「煩悩であってもよいのだ」とか「煩悩だから仕方ないのだ」とか、「煩悩があることが生きている証拠だ」だなどと評価する。そのように評価された「煩悩」は、「煩悩」を「正しく」見たことにはならない。つまり、突きつめれば、自分では「煩悩」を「正しく」見ることができない。
 そう言う意味で、「煩悩」は私の一部分でしかない。私全体を「正しく」見渡すことができないのだから。「貪欲」という「煩悩」は、すべてを貪り尽くし、我が物としようとする「煩悩」で、「見る」という認知作用すら、この「煩悩」のはたらきである。こうなると、「煩悩」から逃れることなどできないと思ってしまう。
 しかし、敢えて言いたいのだが、「煩悩」は私全体を覆うことはできない。私とは、自分を超えているもので、言わば「虚空」を中核にしている。譬えれば、ドーナツの穴だ。穴が自分の中核であって、その周辺つまり、ドーナツの部分が「煩悩」である。だから一部分に過ぎない。それらの「一部分」がたくさん集まってドーナツを形成している。しかし、その中核の、つまり穴が自分だから、決してその穴を埋めることはできない。
 親鸞は「煩悩」にこだわって表現するのだが、それは「煩悩」が自分の思いや努力でコントロールできないことを教えるためだろう。それすら「他力」の為せる業だと。つまり、「煩悩」が深層からの促しで起こり、現象として表に現れた段階でしか、我々はそれを「煩悩」として見出すことができない。
 言わば、「煩悩」は、その「虚空」から立ち現れてくるものではないのか。立ち現れて「煩悩」と受け取られてしまえば、それは「煩悩」本来の姿を失ってしまう。木村敏さんが言うように、「煩悩」はコトなのであって、「もの」ではない。「煩悩」が「煩悩」だと「もの化」されてしまえば、それはいのちを失う。
 つまり、「煩悩」を自覚すると言っても、その「一部分」である表層しか知ることができない。人間に一番関係の深い「煩悩」が「愚癡」だ。「愚癡」とは、「無明」と言い換えられたりする。つまり、「間違った認識作用」という意味だ。この「間違った」という意味は、倫理的な意味を含まない。言わば、「恣意的」という意味だ。他の生物にはない、人間の特徴であり、人間という種であれば、そのようにしか受け取ることが出来ない、という意味である。だから、倫理的な意味で「間違って」いるわけではない。「間違った認識作用」だからと言って、人間はそれをやめることができないし、それを「間違い」として「正しく」見ることもできない。
 その「愚癡」が底辺にあって、その上に「貪欲」がはたらく。「貪欲」は「愚癡」より表層にあるので自覚しやすい。
親鸞であれば、それをこう言う。「わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身・口・意のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。」(『親鸞聖人血脈文集』)
 これは「自力」の定義だが、この「自力」こそが「貪欲」だ。「わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって」という、その「はからいのこころ」とは「貪欲」である。もちろん「愚癡」という知を底辺にして立ち上がっている「貪欲」だから、「はからいのこころ」と言っている。それもこれも、「浄土往生」を餌食にして、それを貪ろうとする「貪欲」の知的作用である。
 親鸞が発見した〈真・宗〉は、いままで仏教が、「清浄」だと考えてきた「菩提心」が、実は「貪欲」だったと見えてしまった世界だ。この発見によって、「する」という関心の仏教が死んだのだ。「する」仏教が「本当の仏教」だと考えているひとにとって、「ある」仏教は、何もしていないように見えてしまう。しかし、「する」仏教が死んで、「ある」仏教が復活してくると、その「ある」は「されている」の噴火口になり、無限に、躍動している「されている場所」となる。それが「浄土」が実現する場所である。
 以前から、「悲しみは貪欲の悲鳴なり」と言っている。そうそう、六根とは「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」の生理的器官のことだが、それらは互いに独立していて他の識と競合しない。つまり、「眼識」は「明るさと暗さ」を、「耳識」は「雑音と心地よい音」を、「舌識」は、「美味さと不味さ」をのみ感じ取る。仏教は、「六根」という器官が感じ取る世界のことを「境」と呼んできた。「六根」は「六境」をのみ感じ取ると。「六境」とは、「色・声・香・味・触・法」だ。それに譬えれば、「貪欲」という識は「悲しみと喜び」をのみ感じ取る「器官」のようである。
 仏教の感情分析では、「慈悲喜捨」と言って、これを「四無量心」と呼んできた。「慈」とは慈しむこころだから、愛情だろう。「悲」は文字通り悲しみの感情。「喜」は喜びの感情。最後の「捨」とは、他の三つの感情が起こっていない日常感覚だ。大雑把に言えば、これらを統括している「器官」が「貪欲」ではないか。
 自分の日常を思えば、「捨」が一番多い。つまり、すべてが当たり前に存在し、当たり前に時が過ぎていくという感覚だ。この「当たり前感覚」も「貪欲」が正常にはたらいていることの証明だ。
 しかし、その「貪欲」も、自分全体の中の「一部分」だったのだ。自分全体を覆おうとする「貪欲」の被いからスルッと抜けてみると、やはり、自分は「永遠」をのみ目の前にしていたのだと改めて気付かされる。どう転んでも、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」の〈いま〉から一歩も動いてはいなかったのだ。