綻び

「過去」は、すべて荘厳である。私には「過去」しか与えられていない。その「過去」は、私が体験した、あるいは、私が知った出来事の集積だ。その「過去」をどのようにいただくか。そのいただき方によって、「世界」が変わる。
 私にとって、すべての「過去」は「荘厳」だと書いたが、「荘厳」とは、私を「教育するための教材」という意味だ。だから、私は、どこまでも「教育されるべき生き物」ということになる。
 何を教育されるのかと言えば、それは他に代替えする用語がないので、まあ「いのち」と言っておこう。「いのち」と言う言葉は、人間の手垢だらけの言葉だから、誰もが知って、分かっているこのだと考えられている。しかし、その実態を知っているひとは誰もいない。
 「死」を体験したひとがいないように、つまり、「死」を知っているひとがいないように、その反対にある「生」を知っているひともいないのだ。「生」と「死」とは、生まれてから教育されることによって、人間は徐々に知っていく出来事である。アウグスティヌス風に言えば、「いのちとは何かと問われるまでは知っていたが、さていのちとは何だと問われた途端に曖昧になるもの」、それが「いのち」である。
 人間にとっては、「現在」も「未来」も、すべては「過去」としてしか知ることができない。だから、「純粋な未来」などは、決して知ることができない。この「知ることができない」ということが、「救い」である。
 だから、親鸞は「浄土」を「無量光明土」と言ってみたりする。「無量」だから、お前には決して量ることができ無いという意味だ。「量ることができ無い」と叫んで、「量ろうとする努力」を断絶させる。断絶させられることが、「救い」である。人間は無駄な努力をしたがるものだ。なぜならば、努力をして得たものでなければ、ご利益として見なさないからだ。本質的に、人間は「努力」とは無関係な世界を生きている。それが、「量ることのでき無い」世界だ。
 しかしだ、目を外にして外界を眺めてみると、そこは「量ることのでき無い」世界だらけではないか。公園には、三本の青桐の樹が生えている。あれを見ても人間が量ることはできない。まあ、「青桐」は人間が貼り付けたレッテルだから、本当の名前ではない。「植物」というのもレッテルだ。「樹」もそうだ。それらの名前をすべて剥奪してみれば、それは「量ることのでき無い」世界に間違いない。人間は「量る生き物」だが、〈真実〉は「量ることのでき無い」世界なのだ。
 自分自身に対するイメージも、本質は「量ることのでき無い」ものだ。フロイトの「自我像」は、やや卵形に描かれているが、下部が閉じていなくて、開放形になっている。それは「綻び」だ。
 円形・球形は安定・安心の形だが、同時に閉塞感がある。円形・球形のどこかに綻びがあり、破れていることで息抜きができる。フロイトの描いた「自我像」は円形ではなく、下部が開放されているので、以前この図を見たとき、何か物足りないものを感じた。むしろユングの描いた球形の「自我像」に安定・安心感を感じていた。
 しかし、近頃では、逆にフロイトの「自我像」に親近感を感じてきた。円形・球形は、円満性・完全性があるのだが、同時に閉塞感も感じるからだ。やはり「綻び」が、ものすごく大事なのだ。「綻び」とは、否定的な現象ではなく、他なるものと融通するための深淵である。
 浄土の物語でも、阿弥陀仏だけで表現すればよいものを、わざわざ、法蔵菩薩という「綻び」を説く。「誓願」とは、「もし、苦悩する存在がすべて救われなければ、私は仏には成りません」という誓いだ。こんな誓いを建てたものだから、永遠に阿弥陀仏は阿弥陀仏には成れない。なぜならば、この世には苦悩しない存在はないからだ。つまり、阿弥陀仏の救済が完全ではなく、綻びていることを述べている。
 この阿弥陀さんの綻びが、私にまで届く。そうすると、この身体が阿弥陀さんに占領される。この身体は「量ることのでき無い」ものそのものだ。
 村上春樹の新作『街とその不確かな壁』の物語をイラストにしてあるものを見た。それはあまり頑丈そうには思えないクネクネとした壁に閉じられていた。その中心には塔がある。前田重治(精神分析)の「現代の自我構造」のイラストも見た。これはフロイトの「自我像」から刺激されて作成されたものらしい。そこには鉄筋五階建ての頑強そうな「自我統一本部」が立っている。一番左には、パラボラアンテナをつけた建物があり、そこには「知覚ー意識本部」と書かれている。面白いのは、一番右だ。そこは「原始林」と書かれ、十字架が立ち並び、林が連なる。やはり、一番右は、閉じられていない。すこし開かれた湾口のように描かれている。
 私は、その閉じられていないところを「綻び」と呼んでみたい。その「綻び」を通じて、未知なるものと通じていく。
この「綻び」は、もともと「量ることのでき無い」ものとして「自己」があることを暗示しているのではないか。どこかに行って出会うものではなく、本来的に出会ってきたものだったのだ。それを忘れていただけだったのだ。