「無いこと」が「有ること」を基礎づける

安田理深先生の以下の言葉が凄い。
「たのむも助けるも、世間の言葉であるが、信仰には助けるも、たのむもないのが、本当である。事実また、そんなことに用のないのが南無阿弥陀仏の安心である。南無阿弥陀仏ということにすべては尽くされている。」(『安田理深選集』第九巻p227)
 「たのむも助けるも、世間の言葉であるが」と言われているが、そもそも、親鸞は「たのむ」という言葉を使っている。それも漢字で「憑依」の「憑」を用いて「憑む」と読ませている。現代の一般的な用法であれば、「頼む・恃む」を用いるべきだと思うのだが、「憑」を用いている。まあ『教行信証』に引用される『往生礼讃』や『観経義疏』で「憑」の文字が用いられているので、それに習ったとも考えられる。親鸞はそれほど、この文字に特段の思いはなかったのかも知れないが、現代人の私は違和感を感じる。なぜなら「憑」は、「狐憑き」などと用いられるように、「神などの霊が人間に取り憑き、そのひとの人格を支配する」という意味に用いられるからだ。
 親鸞が、用いる「憑む」は、人間が意識的に「自分を相手にゆだねて願う」という意味ではなく、「阿弥陀さんが人間に取り憑き、そのひとの人格を支配する」という意味だったのかも知れない。〈真・宗〉とは、いままで自分が主人公だと思って生きてきた者を、それは間違いであり、「阿弥陀さん」が真の主体(主人公)であったと、主体を明け渡すことなのだ。だから、「恃む・頼む」ではなく、「憑む」の方が、その意味に適合していると思えてくる。誤解を怖れて付け加えれば、主体を明け渡すとは、「自分が能動の主体」だと思っていた者が、「自分は受動の客体」であったと目覚めることである。まあ〈真実〉は、「絶対他力」という意味だ。
 まあそれはそれとして、安田先生が、「たのむ」は「世間の言葉であるが」という言い方が面白い。「世間の言葉」とは、私の言葉に翻訳すれば、「救済物語の内部で語られる言葉」という意味だ。これを広げてみれば、「浄土教」という信仰表現全体をカバーしてしまう。「浄土教」は「物語的表現」で出来上がっているので、安田先生に、「世間の言葉」という、多少、否定的なニュアンスを含んだ表現を生ませる。先生は若い頃、「浄土教」は「物語的表現スタイル」で語られるので、それに違和感を感じて馴染めなかったと、次のように吐露している。
「私自身の経験であるが、初め浄土教というものは好きではなかった。なにか仏教の堕落したもののように見えたからである。学生時代興味を感じたのは浄土教ではなく、むしろ『涅槃経』とか『華厳経』であった。(略)信仰というものを純粋に求めるなら福音書の方がよほどよいと思っていた。しかしそうした、単に信仰といったものではないもうひとつ思想的なものは、『華厳経』や『涅槃経』にあらわれる仏教であると思っていた。しかし、今から考えてみると、阿弥陀の本願というものは、そうした思想的興味を超えて、人間の深みに響くようなものであったのである。(略)どんな愚かな人でも理性を超えて響くものである。もともと、人間存在というものは理知に根拠を置くものではない。もっと深いところに根幹があるものである。理知は神話を否定するものであるにもかかわらず、神話には理知を超えた部分に響くものがあるのである。だからどんな愚かな者もうなずける。そしてまた、どんな思想家もうなずかざるを得ぬものである。(略)理知を超えたものを感ずることができるような理知のところに思想がある。それが本願である。これが『大無量寿経』の法蔵菩薩の物語である。」(『安田理深選集』第十五巻上1984年文栄堂書店p5)
 浄土教を「仏教の堕落したもののように見えていた」というのは、やはり、「世間の言葉」で作られていると感じられていたからだろう。だから、もっと原理的なと言うか、教理学的で概念的な用語の方が、信仰の真髄を語っているように思われたのだろう。「諸法実相」とか「無自性空」などという仏教語の響きの方が、本当ではないかと思われたようだ。しかし、そこから先生は、「阿弥陀の本願というものは、そうした思想的興味を超えて、人間の深みに響くようなものであった」と懺悔されている。これは教理的な関心が表層の次元にあるとするなら、人間存在の〈真実〉は深層にあるのだと覚られたのだろう。
 あたかも神話学者のケレニーが言う、「神話は物事を説明するためにあるのではない。物事を基礎づけるためにあるのだ」(河合隼雄『物語と人間の科学』岩波書店1993年)に通ずる。教理的な関心が「説明」の次元にあるならば、「神話」は「物事を基礎づける」のだ。この「神話」とは、私の言う「物語(ナラティブ)」のことである。
 「たのむ」とか「たすける」という言葉はすべて「物語」内部の言葉だ。言えば「本願」も「浄土」も「往生」も「救済」も、すべて「物語」の中での言葉だ。なぜ「物語」の言葉を使って「基礎づけ」を行うのかと言えば、それは人間が本来的に「物語的存在」だからなのだ。この世に誕生してから、自分というものを主人公にして人生という舞台を生きているのが人間だからだ。
 この「物語的存在」には、物語的な言葉でなければ意味が通じない。それで「たのむ」とか「たすける」という言葉を使う。しかし、それは決して、頼み込むという意味でも、仏さんが私の苦しみを取り除いて助けるという意味でもない。言えば、たのむ必要も、たすかる必要もないのだ。あらゆる人間の期待や思い込みと、完全に絶縁している世界こそが〈真実〉だと教えるためなのだ。
 そしてこれも誤解を受けそうだが、その「完全に絶縁している世界」によって存在を「基礎づける」のである。「完全に絶縁している」ならば、そんなものは存在の「基礎づけ」には役に立ちそうもないのだが、そうではない。逆である。
 まど・みちおさんの「リンゴ」という詩が、そのことを上手く語っている。「リンゴを ひとつ ここに おくと リンゴの この 大きさは この リンゴだけで いっぱいだ リンゴが ひとつここに ある ほかには なんにも ない ああ ここで あることと ないことが まぶしいように ぴったりだ」のリンゴは、有と無で、それを示している。リンゴがここに有るためには、リンゴの存在を受け容れている無の空間があるのだ。無の空間があって、そこにリンゴの有の大きさがぴったりとはまっている。つまり、有は無によって包まれ、そこに存在が許されている。有は、この無によって存在が「基礎づけ」られているのだ。何か「基礎づけ」というと強固な固定的事物で固められそうだが、そうではないのだ。「完全に絶縁している世界」によって「基礎づけ」られる。「完全に絶縁している世界」とは、「阿弥陀」という世界だ。
この「完全に絶縁している世界」に「基礎づけ」られれば、そこから、自由に「物語」の世界を遊ぶことができる。