阿弥陀さんのシャワー

「煩悩」ということが見えたら、それだけで「さとり」だ。阿弥陀さんから見たら、これは違うのだが、私から見たら、〈真・宗〉の教えに触れてから、何年も過ぎたと思う。そして記憶の中を辿ってみると、親鸞は人間を「煩悩具足の凡夫」と捉えている。だから、自分は「煩悩具足の凡夫」なのだと受け取ってきた。そのときの受け取りは、「どうしようもない存在」、「情けない存在」、「自分で自分のこころを持て余している存在」というニュアンスだ。しかし、この受け取りだと、「煩悩具足の凡夫」を人間の劣等感で受け止めただけのことにならないか。親鸞の言う「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」(『歎異抄』第九条)という受け取りとは違っている。
 親鸞は、それを「たのもしい」という感情で受け止めている。「たのもしい」とは、「絶対にたのみにできるように思われる。まかせておいて安心である。心強い。」(『広辞苑』第七版)という意味だ。このように見ると、我々が、自分を「煩悩具足の凡夫」だと受け取る態度とは、あきらかに違っている。
 それは親鸞が「煩悩具足の凡夫」を「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたること」と受け止めたからだろう。これを要約すれば、「煩悩具足の凡夫」は仏の知っている仰せ、つまり「仏説」ということになる。さらに「仏説」だから、それは「たのもしい」という安心感に繋がっていると言っている。そのように展開する親鸞のこころの動きはどうなっているのだろうか。
 おそらく親鸞も人間だから、我々と同じように、「煩悩具足の凡夫だから情けない」と思ったこともあるはずだ。この受け止めは、それこそ「煩悩」である劣等感の受け止めだ。『歎異抄』第九条では、唯円の受け止めと重なる。唯円は、念仏を称えていても「たのもしい」という感情ではなく、「情けない自分」という劣等感の受け止めとなったいた。この点では、親鸞も同じ受け止めであり、「唯円房おなじこころにてありけり」と言っている。劣等感が煩悩であれば、煩悩を具足している人間なら誰しも同じこころの動きをするはずだ。ここで「同じこころ」と言えなければ、〈真・宗〉は、特殊な人間だけの「観念の遊び」に堕してしまう。この「同じ」が、人間の普遍的なこころの大地を保証している。
 ただ、それだけであれば、「たのもしい」という感情には繋がらない。そこから、もう一つの飛躍が必要だ。それが、「仏かねてしろしめして(略)とおおせられたること」だ。つまり、「煩悩具足の凡夫」が「仏説」となるということだ。
 まず第一段階では、「情けない自分」という劣等感が起こる。その次に、この「情けない自分」をどう受け取るかというステージへ移行する。自我というものは、無限に後退していくものである。つまり、自分を「情けない」と見ている自分を、さらに見ている自分があるのだ。「情けない自分」をダメだなと、さらに劣等感で受け止める自分がある。視線を後退させることで、「見る自我」がどんどん後退し、「見られる自己」がどんどん増えてくる。まさに劣等感のインフレーションである。
 その無限連鎖を断ち切るものが、「仏説」という受け止めだ。つまり、その無限連鎖を引き起こす正体が、自分ではなくて「阿弥陀さん」だと目覚めることだ。いままでは、「自分」が劣等感を引き起こしていたのだと思い込んでいた。ところが、その「自分」とは「自分」ではなく、むしろ「自分の外部」、つまりそれは「阿弥陀さん」だったという驚きである。
 劣等感とは、優越感情が引き起こすものであって、人間であれば誰もが兼ね備えている、当然のこころの動きだ。念仏を称えても喜びが感じられないのは、自分の修行不足、受け止め力の不足、聞法経験の不足、念仏の称え方の間違い、などが原因だと、無限に自己を劣等感に引きずり込もうとする。つまり、劣等感の究極の原因は「自己」にあると考えてしまう。しかし、それが「仏説」ということは、その「自己」と思うこころが解体されて、「阿弥陀さん」になることである。表現を変えれば、自分が考えるような「自己」などはどこにも存在しないという新たなる発見である。
 親鸞は、「往生」ということを、「皆受自然虚無之身無極之体」と言っている。(『教行信証』真仏土巻)読み下しにすると、「みな、自然虚無の身、無極の体を受けたり」となる。この「虚無」を親鸞は「如来すなわちこれ虚無なり。」(同書)と定義しているのだから、「虚無の身」とは「如来の身体」という意味になる。「虚無」を「きょむ」と読めば、否定的なマイナス感情だが、「こむ」と読めば、人間を解放する言葉となる。私の言葉で言えば、それは、「〈存在の零度〉」という意味になる。もはや、人間が考える「身体」、つまりは「肉体」が「無実体」であるという意味だ。「肉体」は、さまざまな関係性で出来上がっているのだから、本質的には、実体はない。この「本質的に」という言葉が、重要だ。「本質的に」とは、人間はそんなことをほんの少しも思ってはいないけれども、〈真実〉から言えばそれは間違いのないことだという受け止めだ。仏教語で言えば、それは「無自性」であり、「空」であり、「縁起」である。
 だから、親鸞の言う「往生」とは、人間が考える他界観という幻想を超えている。「往生」という言葉も、浄土教が「物語」として〈真・宗〉を語るときのキーワードだ。「物語」だから、我々の「前世」と「来世」という観念を利用して「往生」を説く。「物語」で言えば、「往生」は、「現世」のいのちが終わって、臨終を縁として「浄土」へ往くというイメージで語られる。これはいわゆる「常識」とまでなっている観念だ。まあこれは幻想なのだが、この他界観念があるために、この他界観念を引っ繰り返す形で、親鸞は「往生」を語ってくる。
 親鸞は、浄土教の「物語」を利用しながら、つまりは人間の幻想を利用しながら、それを引っ繰り返すように、「自然虚無の身、無極の体を受けたり」ということが「往生」だという。極端に言えば、自分は「死なない」し、「死んでからどこかに往くわけではない」ということだ。もはや、「往く」とか「往かない」という観念も通用しない世界だ。他者の死しか知らない人間は、「一人称の死」を自覚的に体験できない。そう考えれば、「死」という観念は幻想ということになる。それは幻想であるけれども、それを「煩悩」は否定感情で受け止める。「生」という欲望を貪ることができないというところから来る否定感情である。それで煩悩は、浄土という他界を、自由に貪ることのできる「幸福」と感じ取らせる。他界を「地獄」と見るのも、また「浄土」と見るのも、利害損得心(煩悩)の脚色に過ぎない。そのように覚めてしまうことが、親鸞の言う「往生」である。しかし、初めから「自然虚無の身、無極の体を受けたり」と語っても、何のことか分からないので、一応、「往生」という「物語的言語」を使って表現するのだ。
 覚めてしまえば、自分は「死」に向かっているわけでもなく、どこかに往こうとしているわけでもなく、誰かである必要もなくなる。まさに〈零度の存在〉へ還ることができる。もともと〈存在の零度〉から生み出され、〈零度の存在〉であることに目覚めるのだ。
 だから、親鸞の身体は「阿弥陀さん」だから、「さるべき業縁のものおせばいかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第十三条)となるのだ。そのようにするべき、あるいはそのように考えてしまうような必然性がやってきたならば、そのようにしか振る舞うことはできない存在という意味だ。マイナス感情がやってきても、それは「自分」が起こしているのではなく、「阿弥陀さん」(つまり、「さるべき業縁」)が起こしていることなのだ。だから、「自分」の自由にはできない。「阿弥陀さん」の言いなりになっているしかない。でも、「阿弥陀さん」が自由自在に、「自分」という舞台で演じて下さっているのだから、それは「たのもしい」ことなのだ。「ただほれぼれと」(『歎異抄』第十六条)と「阿弥陀さん」の演技を拝見すればよいのだ。
 「煩悩具足の凡夫」が「仏説」であるということは、言葉を換えれば、「阿弥陀さんの呼び声」という意味だ。「本質的に」、自分は自分が何者であるかを知らない生き物である。「もともと」、「虚無之身、無極の体」なのだから、自分などという実体はないのだ。ゴーギャンではないけれど、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」ということを、「本質的に」は知らない生き物なのだ。
 その人間に向かって、「阿弥陀さん」は「煩悩具足の凡夫よ」と呼びかけて下さる。「マイナス感情も幸福感情も、ともに利害損得心が生み出している幻想を生きる者よ」という呼びかけだ。これは、「呼び声」なので、この言葉は「呼びかける者」、つまり「阿弥陀さん」の声としてのみ成り立っている。それを聞いて受け止めた側に留まる言葉ではない。だから、一瞬は呼び声に立ち止まり、自分のことかと知らされるのだが、それは直ぐに消えてしまう。もし消えてしまわずに、受け止めた側に留まってしまったら、もう二度と「阿弥陀さん」が呼びかける必然性がなくなってしまうからだ。
 雪の結晶を手で受け止めたときのようだ。一瞬、雪の結晶が美しく見えるが、それはアッという間に消えてしまう。それが「煩悩具足の凡夫」という言葉だ。だから、自分が「煩悩具足の凡夫」だと思ってはならないのだ。自分が受け止めたままにすると、それは必ず利害損得心で受け止めた、マイナス感情か幸福感情かに汚染されてしまうからだ。それで「阿弥陀さん」は、「煩悩具足の凡夫よ」と呼びかけ続けて下さる。つねに、「万劫の初事」として、呼びかけ続ける。
 この呼びかけをシャワーのように浴び続けるもの。それが、〈零度の存在〉である。