〈真実〉に触れ得ないというご利益

昨日の東京三組の法座で、私は「〈真実〉に触れ得ないことがご利益です」と述べた。この言葉を皆さんは意外な顔で受け止められたようだった。何か、皆さんは、「〈真実〉」に触れることが幸せなことだと思われているようだった。親鸞聖人は、「真実」という言葉を、全著作で三百二十一回も使われているのだから、「〈真実〉」をご存じだったに違いないと思われているのだろう。
 しかし、私は、もし人間が「〈真実〉」を知ってしまったら、恐ろしいことになると思っている。そんな恐ろしいことは願い下げだ。人間が「〈真実〉」を知ってしまえば、必ず傲慢と憍慢と独断が生まれる。自分は、「〈真実〉」を知った人間として振る舞うことになる。自分は「〈真実〉」を知っているけれども、あなたはまだ知らないのですか、という憍慢が生まれる。また、戦争を始めようと志す人間は、必ず「自分は〈真実〉を知っている」と思っている。「〈真実〉」を知っているから、自分のしようとしていることは間違いない、「正義」なのだと意味づける。間違っているのは相手であって、自分ではないと。まあ戦争ばかりでなく、我々の日常生活で起こる諍いは、ことごとくそういうことだ。
 親鸞聖人は、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど」(『歎異抄』後序)と語っている。ここでいう「如来」とは「〈真実〉の基準」の譬喩である。我々が知っている善悪は、相対的基準で決めている善悪だ。殺人は「悪」だが、死刑制度という相対的基準を使えば「善」とされる。人間の善悪は条件次第でころころと変わってしまう。だから、絶対的な善も絶対的な悪も、私は知らない、もし知っているものがあるとすれば、それは如来以外にないと親鸞は述べている。
  親鸞は、「〈真実〉」を知っている」ということから起こる災厄をよくご存じなのだろう。それで、「たとい、牛盗(うしぬすびと)とはいわるとも、もしは善人、もしは後世者、もしは仏法者とみゆるように振舞うべからず」(『改邪鈔』)とおっしゃったのではなかろうか。牛盗とは、牛を盗む窃盗犯だ。たとえ窃盗犯とは呼ばれても、仏法者と見えるように振る舞うなと。仏法者とは、「自分は〈真実〉を知っていると自認しているひと」のことだ。つまり「〈真実〉を知っているという思い」は窃盗犯よりもよくないことだと厳しく指摘している。
 それで親鸞聖人は、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(「愚禿悲嘆述懐」)と記すことができたのだろう。この和讃を、受け取るときには二つの受け取り方がある。一つには、真実の心にはなれなかったという絶望感、もう一つは、真実の心になる必要がなくてよかったという解放感だ。
 それには、この「ありがたし」をどう読むかに掛かっている。絶望感は、「ありがたし」を、人間が努力をしても達成できない不可能さと受け取る。しかし、解放感は、如来の直説と受け取る。つまり、「真実の心はありがたし」は、如来から私への直説であり、絶対的な不可能さを与えて下さる。それを私は「完璧なる根切り」と呼んだことがある。
 それはちょうど、妙好人・讃岐の庄松が「御本尊様が物を仰せられたら、お前等は一時もここに生きて居られぬ」と言い切ったことに通じる。庄松にある住職が、「うちの本堂の阿弥陀さんは、生きておろうか」と問うた。それに対して庄松は、「生きとる生きとる」と返答した。それでさらに住職が、「生きていらっしゃっても、ものを言わないではないか」と言い返した。それに対する応答が、これだ。
 庄松が「生きとる生きとる」と言った意味場と、住職が「生きている」と言った意味場は完全にずれている。住職の言い分のほうがよく分かる。阿弥陀さんが生きているなら、人間の言葉をしゃべるはずだと。つまり、人間と同じレベルに居なければ、「生きている」とは言えないという反論だ。それなのに、庄松は「生きとる生きとる」と応えておきながら、「阿弥陀さんが言葉をしゃべったら、お前等は一時もここに生きて居られぬ」と応答した。
 これは、阿弥陀さんと人間界とが完全に隔絶していることを表しているのだ。隔絶しているなら、「生きている」かどうかなどどうして分かるのか。庄松が「生きとる」というのだから、それは人間に感受されることでなければならないだろう。こういう疑問が住職の心中にはあったかもしれない。
 庄松の言う「生きとる生きとる」は、人間が感受できないように「生きて」はたらいているという意味なのだ。人間が感受してしまえば、それは「人間的な阿弥陀さん」になってしまう。だから、決して人間には感受できないように、感受させないように「生きて」はたらいているという意味なのだ。阿弥陀さんが言葉をしゃべるというのも譬喩だが、それを承知で使うならば、そこは「阿弥陀仏国(浄土)」での出来事だ。そこには人間が住むことができない。だから、「お前等は一時もここに生きて居られぬ」となるのだ。
 譬えて言えば、それは「宇宙」のようなものだ。生身の人間は宇宙空間に生きることはできない。空気が存在しないのだから、一時も生きられない。阿弥陀さんの「阿弥陀仏国」も、そのようなものだ。まあこれも譬喩だが、「阿弥陀仏国」と我々の生きている娑婆の隔絶性を、そこから感じることもできる。
 〈真実〉に触れ得ないことが、なぜ「ご利益」と思えないのか。それは、〈真実〉に触れることができる思っている「思い」が死んでいないからだ。この「思い」によって自分自身が振り回されているというのに。まあこの「思い」とは、「自力のこころ」なのだが、これが阿弥陀さんの「完璧なる根切り」によって値切られると、「能動」が、一気に「受動」に変わってしまう。「見る」ことは、「見せられる」ことに、「考える」ことは、「考えさせられる」ことに、「する」ことは、「させられる」ことに。いままで「能動」の主体だと思っていた「思い」が死に、阿弥陀さんが主体として乗り移ってくる。阿弥陀さんが乗り移ってくるのだから、やはり、「生きとる生きとる」ということになるのだ。