どう考えても、「目覚め」は、「誕生」と同じ形をしているように思われる。布団の中で目を覚ます。正確に言い直せば、「目を覚ます」ではなく、「目が覚める」である。人間が意図的に「目を覚ます」ことは不可能だ。「目は覚める」ものであって、「目を覚ます」ことはできない。
そこに、「私」というものを入れ込んでみると、「私」が目を覚ましたのではなく、「私」は目を覚まされたのである。つまり、「私」は目覚まされた存在となる。さらに、目が覚めてみると、そこには、まったく「新しい朝」が開かれる。同じ事の繰り返しのないのが、「日常」だから、この朝は、自分にとって、未知未開の新鮮な朝となる。
「未来」というものは、一瞬先だろうが、何億光年だろうが、「未来」という性質は変わらない。自分にとっては、常に未知未開だ。ただ、脳は、そう考えない。「昨日と同じ自分」であり、「昨日と同じ時間」が流れていると「考える」。脳は未知未開が嫌いだから、すべてを「同じ事の繰り返し」のように脚色する。もし、目覚がさめて、トイレまでの道中、強盗が現れるんじゃないかとか、床が抜け落ちるんじゃないかと考えたら、恐ろしくて、寝床から抜けだけなくなる。だから、脳は、そういう可能性を排除して、無いことにしてしまうのだ。ところが「事実」は、脳の予想したとおりにはならない。2024年の元日に起きた、能登半島地震は、そのことを暴露してしまった。「同じ事の繰り返し」はないということが〈真実〉だと証明してしまった。
そうなると、目を覚まされた眼が見ている光景は、「同じ事の繰り返し」のない世界であるに違いない。だから、本当は脳にとっても、未知未開の世界であるはずだ。だが、それを徹底的に拒否し続けているのが「脳」だ。
この光景は、原始人が目にした光景と、そうは変わらないのではなかろうか。釈迦や親鸞が目にした光景と、そうは変わらないように思う。確かに、諸々の設えは違う。原始の時代には、高層マンションも飛行機もパソコンもない。しかし、それも地球から生まれたものであるのなら、本質は変わらない。地球から生まれたというのは、それらの素材が地球に存在している原料を利用して作られているという意味だ。レアメタルなども、地球に埋蔵している素材から作られる。高層マンションを成り立たせている、鉄骨もセメントも、地球に埋蔵されている素材から作られている。
極端な見方だが、それらの素材を地球に還元してみれば、原始人の見ていた光景と、現代とは、そうは変わらないだろう。目を覚まして、初めて目に飛び込んできた光景は、原始人の見ていた光景と、そうは変わらないのではないか。これも「脳」の還元操作という方法を利用しないと、見えない光景ではあるのだが。そうそう、心理学で言う「文字のゲシュタルト崩壊」が、まさにそれを示している。我々が日頃使っている漢字の一文字をずっと見つめていると、いままで分かっていた漢字が、なぜその漢字で表すのかが分からなくなるというものだ。ゲシュタルト崩壊が起きやすい文字は、たとえば「傷・粉・若・野」などがあるらしい。この手法を、目の前の光景にも応用してみると、「環境のゲシュタルト崩壊」が起きる。例えば、「本のページ」をジッと見続けると、そこにパルプだった頃のことを、さらにそのパルプを取り出した樹木を、さらにその樹木を生み出した、親の樹木を、その樹木を育てていた山を、山を生み出していた大地を、大地を潤していた雨を、どんどん広がっていって、この地球全体をイメージすることになり、その先は宇宙へと繋がっていく。それは「本」ばかりではない。環境のあらゆる物が、そうだ。さらに、それは環境にとどまらず、この自分という身体にまで及んでいく。
そう思うと、「誕生」も、「目覚め」と同じ形をしているように思えた。「誕生した」のではなく、「誕生させられた」のだ。私が、地球上に誕生し、初めて目にした光景と、今朝、目覚めて目に飛び込んできた光景とは、そうは変わらないのではなかろうか。つまり、その光景を「脳」が受け取るという限りにおいて同質である。
いま私は、自分が誕生した頃の光景を思い浮かべてみた。しかし、そうやって捉えられる光景はおぼつかないものだ。脳は赤ん坊の頃も光景を見ていたのだろうが、それを今となっては思い出せない。この年になってみると、数年前、いや数日前の光景すら、おぼろげにしか思い出せない。脳はビデオカメラがビデオテープに光景を写すようにははたらいていないらしいのだ。脳細胞も新陳代謝をしているので、光景を記録としている細胞はどんどん新しいものに更新され、跡形も無くなるらしい。そうなると、ますます記憶というものが怪しいものであり、記憶のメカニズムの全体像は、まだ脳科学でも解明し尽くされてはいない。
そうなると、脳が捉える前の「光景」、いや、脳によって「光景」として捉えられる前の何かがあるに違いないと考えてしまう。しかし、それは人間にとっては未知未開だから、分からない。人間にとっては、脳で捉えたものしか認知できないからだ。この脳で捉えられる以前の何かは、脳を超えている。つまり赤ん坊の頃も、そしていまも、超えている。
赤ん坊の頃も、そしていまも、脳で捉える以前の何かと対面しているのだろうけれど、それも脳で考えたこと以上を超えることはない。
今朝の光景も、脳で捉えた途端に、それは「何か」であることをやめてしまう。赤ん坊の時、初めて、脳は、その「何か」を「光景」として写し取った。そして、今朝も脳は「光景」として写し取った。この形が同じなのだから、「誕生」も「目覚め」も同じ形をしているのだろう。私が見ていたであろう、赤ん坊の頃の光景と、いま私が目にしている光景とは、違うのではないかと、脳は思っている。しかし、脳がそれを受け取るという形式が同じなのだから、それは大した違いはないだろう。いまから思い返せば、赤ん坊の頃の光景は曖昧なものであり、いま目の前にしている光景は、それより遙かに緻密なものだと、脳が考えているに過ぎない。
「時間」というものも、決して「客観的真実」なものでも、また「物理的真実」でもない。すべては、脳が生み出した幻想である。すると脳に捉えられる以前の光景を、人間は決して見ることができない。それを布団中で目を覚ました途端に教えられる。
やはり、この世への「誕生」と、今朝の目覚めは同じ形をしているのではないかと思えてしまう。そこから、目の前の光景は、原始人だった自分が、初めて目の前にした光景と、左程の違いはないと思えてくる。
地球と一心同体であるこの身体を、脳に、「受け身形」で受け取らせるものがある。「目覚まされた」とか「誕生させられた」と。何かがあって、それが私を促して、「受け身形」を強いるのではない。何もないのだ。何もないのに、なぜかそれを「受け身形」で受け取らざるを得ないところに追い込む。
親鸞の言う、「信ずる」は、人間が何かを信ずるという意味の「信ずる」ではない。常に、親鸞にとっては、「信ぜよ」という命令だ。この命令を受け取って、人間が「信ずる」ものになるのではない。「信ぜよ」という命令が「信ぜよ」という命令のままに人間に成就する。だから、この「受け身形」を決して崩さない。「信ぜよ」が、「信じます」と受け取れなければ人間は満足しないと思っている。「信ぜよ」が「信ぜよ」のままにであっては、不満であり不安だと感じてしまう。やはり、「信じます」とか「信じた」と言いたいのだ。しかし、決してそう言わせないはたらきがある。「信ぜよ」が、「信ぜよ」のままに満足する。「信ぜよ」を「信じます」と受け取らせないもの。それだけが、脳を超えさせる。つまり、「時間」と「空間」と「自己」を超えさせる。
ここまで、うだうだと述べてきたが、まだまだ、私に「目覚め」と「誕生」は同じ形だ、と直観させたものの核心の表現には至っていない。なんだか周辺をグルグルと回っている感じだ。まあ、やがてその核心が言葉となって開示されるときがくるのだろう。それを、耳を澄まして、楽しみに待つしかない。