一昨日の教学館の講義で、質問を受けた。私が語った「客観が動く」という話は、見え方が変わるということですか?という質問だ。それに対して、私は「まあ、そうですね」と答えた。しかし、そう応えておきながら、何かその応え方に違和感を覚えた。そして、ようやくその違和感が「言葉」となって浮上してきた。
その「客観が動く」という言葉は、千石剛賢さんの「客観が変わる」という表現から刺激を受けて生まれた言葉だ。彼は「イエスの方舟」が漂流を続けているとき、マスコミからはさんざん「うさん臭い新興宗教」だと叩かれていたのに、その最中、彼らはひたすら「聖書研究」をやっていた。そして千石さんは、次のように言っている。
「私はよく客観という言葉を使うんです。客観が変わる、客観がよくなるなどというように。それはけっして経済的なものが好転するとかという意味で使ってるんじゃないんです。そうとられてしまうと、なんかご利益宗教みたいになっちゃう。“お助け爺さん”みたいになっちゃう。なにか困ったときに、すぐに客観、客観というと。こうなると、ほんまにまいっちゃうわけです。
そうじゃなくて、聖書的な言葉に置き換えますと、パラダイスをゆうてることになるわけです。外側の状況がどう悪くなろうと、内部的に存在感が充実してくれば、外面的な、ふつうに使う意味での客観情勢も当然変わる。こういう道筋で使っているつもりなんです。
ですから、「何を食ひ、何を飲み、何を着んとて思ひ煩ふな」(マタイ6-31)と。外側の客観情勢だけ、よくしようよくしようとするな。そうせずに内部の充実感を追究せよ。まず、「神の国と神の義とを求めよ」(マタイ6-33)。これがパラダイスです。つまり内部の存在の充実感なんですね。内部の充実感を求めるとパラダイスが起きてくる。すると当然、それはそれで終わりにならないで、確実に、一般にいうところの客観情勢も変わる」(『父とは誰か、母とは誰か』春秋社)
千石さんは、漂流を続けながら、つまり言えば「客観情勢」がどれほど危機的であっても、「内部の存在の充実感」があれば、「パラダイスが起きてくる」と信じていた。内部が充実すれば、それがおのずと「客観」を動かしてくると。
彼等はマスコミの追跡をくらますかのように、転々と引っ越しをした。その最中、「内部の充実感」を求めて聖書研究をしていたのだ。それ以外に目的はない。それは必ず「客観」が変わると信じていたからできたことなのだろう。ただ、「客観情勢」を好転させるという意図ではなく、ひたすら「内部の充実」を求めた。それが逆ではないのだ。
千石さんは女性達と漂流を続けたのだが、引っ越し先の土地に建物を建てるときも、あえてトイレを一つしか作らなかったそうだ。彼は、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22-39)を実践するためだったという。十人以上の集団だから、必ずトイレを使用するとき他者とぶつかってしまう。その時、自分がウンコを我慢するかしないかで、「自分を愛するように隣り人を愛せよ」を実践しようとした。つまり、自分がウンコをするためにトイレに入ったとする。その時、他者が来て、自分もウンコをしたいと言う。その時、自分はどうするか。もし自分が我慢して、他者にトイレを明け渡すということになれば、「自分を愛するように」が抜けてしまう。しかし、相手の要求を拒否したら、「隣り人を愛せよ」に抵触してしまう。その時、どうするかと。
千石さんは、イエスの言葉を、そのまま実践し実験していた。そして、彼はこう言う。その時、自分は半分だけウンコをして、残りは我慢して、他者にトイレを明け渡すのだと。他者もその態度に応じて、半分だけウンコをして、また明け渡すのだと。彼は「イエスを生きる」を課題にして、日常を「実践的に、そして実験的に」生きていた。
しかし、半分だけウンコをすることが、「我慢」になってはダメなのだとも言う。「我慢」になれば、それはイエスに背くことになる。それが喜びと感じられるほどまでに、感受性が変化しなければだめなのだと言うのだろう。そこまで行かなければ、「エゴイズム」は解体できないと考えている。
「客観情勢」を変えるということは、「他者」を変えようとすることだ。トイレに入ろうとしてきた「他者」を拒否することだ。しかし、それだからと言って、それが、「自分」を変えることを意味しない。「自分」を変えようとすれば、それは「自分」が、「自分という他者」になってしまうからだ。「自分という他者」を変えようとすれば、それは「我慢」になる。「我慢」ではダメなのだ。そこに「我慢」に死ぬということがあるのだろう。それを千石さんは、「内部の充実感」と言いたかったのだろう。
まあ、真宗的表現に置き換えれば、「自力に死ぬ」ということを言わんとしていたようだ。「自力に死ぬ」と「客観が変わる」のだ。それは質問者の言う、「見え方が変わる」ということではない。この「見え方が変わる」という発言は、もうすでに「自分」というものがあって、まあ、それを「主観」と言えば、「主観」があって、その外に広がる「客観的世界」のあることが前提になっている。この「二項対立」の発想をベースにして、「見え方が変わるということですか?」という質問が生まれてきたのだろう。こうなると、「主観」の見る「客観的世界」が違って見えるという、詰まらない話になる。
そうではなくて、その「主観」も変わるのだ。もっと言えば、「主観」も「客観」も共に、それが成り立っているベースが変化するのだ。それが千石さんの言う、「内部の充実感」であろう。
親鸞で言えば、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。」(『歎異抄』後序)である。その「二項対立」というベースの変化を予見している。「善悪のふたつ」とは、「主観と客観」に置き換えられる。この二つを「存知せざる」とは、そのどちらにも〈真実〉はないと手放したということだ。それを私は「客観がうごく」と言ってみたかったのである。
この「手放した」という表現が、そのことをうまく言い当てている。自分が知っている「自分」、そして自分が見て知っている「世界(光景)」は、両方共に〈真実〉ではないと、その「知っている」ということに全存在を預けないということだ。「知っている」ということに全存在を預けてしまうと、「客観」は動かない。それはカメラで撮った「写真」と同じになる。それは静止し固定してしまう。たとえビデオカメラで、動画で撮っても、「映像」として固定化されてしまう。
親鸞に「存知せざるなり」という言葉を吐かせたもの。その作用に身をまかせるのだ。そうすれば、自分が目にしている光景(世界)が、原始未開の原始林に変わる。これが「客観が動く」だ。つねに自分は、この原始林の前に立っている。「過去」と「未来」という「時間観念」から脱して、「永遠の原始林」を目の前にしている。