毎回の法事の最後には、蓮如の「御文」を拝読する。それも小生は、「白骨の御文」のみを拝読する。他のもは、現代人には意味が分かりづらいと思い、ひたすら「白骨」を拝読し続けてきた。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」(以下略)
東京の多くの寺院では、「白骨の御文」が、お通夜のときに拝読されてきた。お通夜の場面に適していると考えられたからだろう。確かに、明日には火葬され、いままさに「白骨」になろうとしているご遺体を目の前にしているのである。この「御文」は、この場面で、深く説得力を持つものだと思われる。
今日も、法事の時に、これを拝読していた。ところが、妙なことに気づかされた。それは、「御文」を拝読するこころが、参詣者に向かっていたということだ。「坊主」というものは、どうしても読経を生業としているので、参詣者に向かって拝読するというこころの構えになりがちだ。だから、「この『御文』をどのように理解してくれただろうか」とか、「もう少し声を張り上げて読むべきだっただろうか、もう少しゆっくり拝読すべきだったか」などと配慮してしまう。
実際に拝読しているときに、その配慮に気づいてしまったのだ。その次の瞬間、そのこころの構えは間違っているのではないかと思えた。「白骨の御文」は、自分に聞かせるようにして読まなければならないものだった。拝読の、第一番目の「聞き手」は私でなければならないのだ。ああ間違っていたなあと、恥ずかしく思えると同時に、ああ素晴らしいことを教えてもらったなという清々しさがやってきた。
私が、第一番目の「聞き手」となり、この「御文」のこころに悦服させられたとき、初めてそれが聴衆である参詣人にも伝わっていくものだろう。まず「私」が「聞き手」として誕生すべきなのだ。
と、ここまで書いてきて、果たして、「私」が「聞き手」になれるのだろうかと、思った。「まぼろしのごとくなる一期なり」と知的には理解できても、それが感受性のレベルまで深く受け止められるだろうかと。蓮如は「我やさき、人やさき」と書かれているが、私はどこまでも、「人やさき、人やさき」としか受け止められず、どこまでも「他人事」でしかないのではないか。
しかし、蓮如が言いたいことの結論は、「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」である。つづめて言えば、「念仏もうすべきものなり」であり、このこと一つを言うために序論が長々と述べられているのだ。
いかにも、ひとのいのちは短くて儚いものだと、暗い気持ちにおとしめることが「結論」ではない。「結論」は「念仏もうす」なのだ。これは口で、南無阿弥陀仏と発音することが、第一義の意味ではない。阿弥陀仏に南無(おまかせする)ことが第一義の意味だ。何をまかせるのかと言えば、所詮、ひとの死を「他人事」としてしか受け取れないという、その「思い」をだ。人間は、「他者の死」を見るか、あるいは、「自分の臨終」を思い描くしか、「死」を思うことができない。その「思い」を手放せと言うのが、「念仏もうすべきものなり」ということの「結論」である。