南無阿弥陀仏に襲われて

前進座の芝居・「花こぶし」を観た。これは親鸞と、その連れ合い恵信尼の半生を描いた作品だ。観たのは、一月二十九日だが、今日は、二月九日。ということは、すでに十一日が過ぎている。この時間の間に、観たときの印象などが削ぎ落とされ、ようやく「言葉」となって発芽してきた。
 当然、親鸞聖人を描いているのだから、そこここで「念仏」(南無阿弥陀仏という発語行為)が称えられる場面がある。あるシーンでは、役者全員が、こちら(観客側)に向かって手を合わせ念仏するシーンがあった。役者は、もちろん観客を想定して、観客に向かって念仏しているわけではなく、西方の虚空に向かって念仏しているのだ。あくまで芝居なのだから、観客の存在は無視されている。無視しなければ、芝居にならない。
 ところがそのシーンに出会って、私の中で不思議なことが起こった。あくまで役者は、我々、観客を無視して、役として念仏しているのだと分かっているのだが、その「演じている」という思いが揺らいでしまい、思わず私も手を合わせてしまった。なぜだか、役者が手を合わせ、念仏している姿が「演技」だとは思えなくなった。思えなくなったというよりも、「演技」であるかどうかが、どうでもよくなったのだ。ただ目の前で、念仏しているひとたちがいる。そのことの存在感に圧倒され、私は思わず手を合わせていた。そして、それは私をとても温かい感じにしてくれた。
 演じ手は、観客のこころを動かし、思わず合掌させることができ、役者としての意図が達成できたと喜んでいたのかもしれない。あるいは、自分は普段、念仏などは称えないけれども、あくまで役柄としてやっているのだと思っていたのかもしれない。そういう夾雑物のような思いは、すべて捨てさせられた。
 ただ「純粋に」、私は手を合わせてしまっていたのだ。観劇の翌日、息子に芝居の印象を聞いてみた。「芝居を観て、感動したところはあった?」と。そうしたところ、息子は、「親父が合掌しているところ」と即答した。息子に、その姿を見られていたのかと、恥ずかしくなった。
 やはり、合掌とは、気恥ずかしさが宿る行為なのだろう。ひとから見られれば、合掌という行為は、実に尊い行為だ。この正月にも、神社仏閣で合掌しているひとの姿をたくさん見た。それを見て、「何を願っているのか」「何に感謝しているのか」などという思いも湧いてきた。しかし、自分が合掌するときには、その姿が自分には見えない。まして合掌して手を合わせて何かを願ってもいない。「思い」はろくでもないことを思うものだ。だから気恥ずかしいのだ。
 しかし、その「思い」が介入する隙間もなく、そのときは、ただ手を合わせるという行為だけが、あった。というよりも、手が合わさってしまった。そして役者の称える南無阿弥陀仏に合わせて、自分も小声で称えていた。まさに「南無阿弥陀仏」に、突然、襲われたのだ。
 いまさらだけど、南無阿弥陀仏とは不思議な言葉だ。すべての初めと終わりが、〈いま〉に収斂されてくる言葉だ。喩えれば、右手が「初め」、左手が「終わり」だ。それが〈いま〉、不思議にも出会う。〈いま〉、目の前にしている光景は、すべてが終わった光景だ。「過去」に飲み込まれた景色だ。いわば、「物語」の最後のページが閉じられたときだ。
 人生の結論が出た時を目の前にしているから、「物語」の結末を知っている安心感が生まれる。
 結末を知って、〈いま〉を「生きる」。そうなると〈いま〉目の前にしている光景が、「遊戯」に変わる。「遊戯」は、行為をすることで何かを期待しない。行為をすること、そのことで満たされる行為だ。まあ、それを出来るのは阿弥陀さんだけで、人間には不可能だ。それは「行為」だけでなく、目の前の事物も含まれる。
 ただ、人間が「遊戯」をするのではなく、阿弥陀さんによって「遊戯させられた」と受け取ることだけは許されている。 私が思わず、合掌し南無阿弥陀仏と発語したということが、その証明である。
 人間には「初め」は、知らされていない。それは阿弥陀さんだけがご存じのことで、人間には「過去」だけが、賜物として与えられている。