映画「PERFECT DAYS」に観た行為の純粋性

役所広司主演の映画「PERFECT DAYS」を観てきた。トイレの清掃員の日常をドキュメンタリータッチで、それをフィクションとして描いている。見終わってから、プログラムを売店で求めた。そして、読み始めて、初めて、この映画の重みを知らされた。もしプログラムを買わなかったら、とゾッとした。
 プログラムには、映画の批評が載っていて、「一見、いわゆる『何も起こらない映画』のように見えるかもしれない。しかし、本作は、人生の意味とは何か、というまさに哲学的な探求が起こる映画であり、そうとしか言いようがない。」とあった。映画だけを観ていたならば、まさに「何も起こらない」退屈な映画としか受け取れなかった。
 淡々とルーティン通りに、清掃員の一日は始まり、そして終わる。その中で多少の人間たちと絡みがあるだけだ。決まった時間に目を覚まし、決まったトイレを、決まったように掃除し、決まった店で一杯飲み、決まった時間に床に入る。この単調なルーティンを日々こなしていく。しかし、彼は木を愛していて、木漏れ日をインスタントカメラ(?)で毎日撮影している。そのフィルムを何本も現像して、金属製の箱がいくつもタンスに保存されていた。
 これもプログラムを読んで驚いたのだが、作者であるヴィム・ヴェンダース監督は、「ベルリン・天使の詩」の作者だった。これは、未だに忘れがたくこころに刻まれている映画だ。中年の憂鬱な顔をした天使が、やがて天使をやめたいと言い出し、天界から人間に堕落する映画だ。天使は人間にとって理想の存在なのだが、当の天使自身はそれが「当たり前の日常」だから、嬉しくもなんともない。これは『往生要集』の「天人五衰」そのものだ。その五つの衰えの中で一番の苦しみが「不楽本居」だ。つまり、自分の居場所が喜べないという苦しみである。天使は天使であることに満足せず、人間に成りたいと訴え、天使の幹部に認められる。「もし人間に成ってしまったら、もうお前は二度と天使には戻れないのだぞ。それでもいいのか?」と念を押される。それでもよしと決断した天使は、天界から地上へ堕ちてくる。堕ちてきた拍子に、地面にぶつかり額から血が流れる。いままでモノクロで展開してきた映画が、その途端にカラーに変わる。額から流れた血を手で拭い、「血だ!血だ!」と周りにいる人間達に、躍り上がって見せびらかす。「これが血だよ!」と。しかし、周りにいる人間達は、何を馬鹿馬鹿しいことで騒いでいるのかといった顔で観ている。怪我をすれば血が流れるのは当たり前じゃないかというふうに。
 天使は、どこへでも行けるし、思いどおりにすべてを行為することもできる。これは人間からすれば理想なのだが、天使自身には、それが「当たり前」であって、喜びにはならない。ここに人間の欲望のあり方を、ヴィム・ヴェンダース監督はうまく描き出している。人間が人間自身であることが、ほんとうは喜びなんだと言いたいのだろう。そこに悩み傷つきうろたえる人間が、愛おしいのだろう。
 この監督の描きたいものが、「PERFECT DAYS」と地続きになっていた。いわゆる、人間の「日常」だが、その取るに足らない「日常」を微細に描くことで、「日常」を超えていくのだ。まあそれを役所広司という一人の役者の存在で描き出そうとしていた。それにしても、この映画をなぜ「PERFECT DAYS」と名づけたのだろうと思う。和訳すれば、「完璧な日々」とでも訳せそうだ。なぜ取るに足らない「日常」が「完璧な日々」なのだろうか。
 それを牽強付会だが、思いっきり「真宗」の意味場へ引きずり込んでみた。「PERFECT DAYS」とは、「往生浄土」ではないか。「完璧な日々」とは、あらゆることが素晴らしく完璧に出来上がり、もうこれ以上言うことはないという時間のことではないか。それを「真宗」の意味場で言えば、「往生浄土」だ。日常のルーティンとは、「往生」が実現しつつある一瞬の出来事なのではないか。清掃員が便器を磨くブラシのひと擦りが、それ自体としてもう「完璧な日々」を象徴している。
だからと言って、自分のしたことが「完璧」だとは言わない。どこまでも、「まだ、まだ」と思っている。
 そこまで来ると、もはや便器を綺麗にするためにブラシで擦っているのではない。目的は便器を綺麗にするということを超越している。擦ることそのことが目的なのだ。この視点を採ってみると、私自身の「日常」も、ブラシのひと擦りと同質の出来事ではないかと思えてくる。ひとつの行為は、その行為それ自体をすることが目的であり、その行為の結果を期待するということが第一の目的ではなくなる。ヴィム・ヴェンダース監督の作品が「Zen Movie」と評される所以もその辺にあるのだろう。まさに「禅・映画」だ。
 生きることの意味を求めることは、大切なことなのだが、それは「貪欲」なのだ。人間にとって「意味」とは、貪欲の感じる成果だから。また「日常」は、貪欲の餌食になりにくいので、「意味」としてひとまとめにされにくい。だから、「トイレを清掃することが生きる意味だろうか」と、自分に問うことが貪欲の問いだと知っている。「意味」とは、貪欲の感じる大雑把な取りまとめだ。「日常」とは、微細な行為の集積であって、その一つ一つの行為を「意味」という大雑把な柄杓で取りまとめることはできない。
 「意味」は極めて知的で観念的な操作だが、「行為」は知以前にある身体的具体性だ。「意味」が「行為」たちを大雑把にとりまとめて結論づけようとすることを「行為」自身が納得しない。
 高史明さんが、自殺願望の娘さんに向かって、「あなたは死にたいと言っているけれど、それを手や足に相談したのか」と問うたのは、そのことを言おうとしていたのだろう。「死にたいとは何が言わせているのか」と。「あなたが死にたいと言っている口に、毎日ご飯を運んでくれている手に相談したのか」と。その子が、問題にしている「生きる意味」は、実に大切な問題だ。また人類であれば、この問いを置き去りにして生きることはできない。切実であり、とても尊く大切な問題なのだが、それは「貪欲」の問いなのだ。「貪欲」は、自分が満足する意味なら受け入れるが、不満足であれば拒否するのだ。結局は「利害損得心」で善し悪しを決めているに過ぎない。問題は、その「貪欲」がはたらくことを成り立たせている身体、そのものへの着眼が抜けているのだ。言わば、抽象から具体へという視線の降下だ。
 「日常」とは、微細な行為の集積であって、そのことでもうすでに「完璧な日々」が実現しているのだ。「往生浄土」は完成しているのだ。その完成という時点から退一歩するのが信心だ。行為をしていること自体は、尊いことで完璧なのだが、それを貪欲が評価しようとする。評価することで、完璧性が汚される。しかし、その汚された世界が信心の住処だ。行為は完璧なのに、それを評価する思いが、いつもそれを汚している。でも、どれだけ汚されても、本当は汚されないのだ。行為は行為自身で完璧だから。
 行為が生まれてくる場所は、決して貪欲で汚されない。なぜならば、行為は「さるべき業縁」から生まれてくるからだ。貪欲は、そこまで遡れない。「さるべき業縁」の生まれてくる大元は、阿弥陀さんだからだ。
 今日も、役所広司演ずる「平山」さんは、便所を擦っていることだろう。唯、そのことをするために。