「外部」とAIの知

昨日(一月十八日)の朝日新聞に、面白いインタビュー記事が載っていた。それは、数理生物学者・郡司ペギオ幸夫さんへのインタビューだ。見出しは「創造的な態度とり 外部にアクセス 開かれた『わたし』」とあった。
「数理生物学」などという研究分野があることすら、初めて知った。しかし、朝日新聞の全面インタビューだから、「時の人」なのだろう。聞き手(宮崎陽介)の話だと「専門はいちおう生命基礎論だが、触手は哲学、複雑系、量子論、アート‥へと及ぶ異才だ。提唱する「天然知能」を手がかりに、AI(人工知能)と人間について聞いた」と書かれている。
 それでインタビューの中から面白そうなところだけを取り上げてみた。
郡司「昔、車が発明された時は、馬の方が色々な所を走れるから便利だと言う人がいました。ところが、車が便利に使えるように道路が舗装され始めた。そこだけを世界と思えば、車は素晴らしい、という話になるわけです。AIがすごく役に立つというのも、そういう世界を自分で作り、その中にいる限りでのことであって、しかも、その世界に縛りつけられて従属し、使っているつもりが、使われている関係になっていきます。」
宮崎「その世界から抜け出すには、どうしたらよいのですか。」
郡司「亀裂を見つけて、『外部』にアクセスすることです。」「たとえば、リンゴと言えば赤くて丸い果実のことですよね。もうガチガチに辞書的な意味が固まっていて、亀裂などない。だけど詩人は、言葉と意味の束縛を解いて、全く違う意味を見つけます。リンゴを割った断面を崖の斜面に見立てたり、土くれのような野性味を感じたり。思いもよらない意味を『外部』から招き寄せるのです。」
宮崎「そのカギが、提唱している「天然知能」ですか。「知覚できないが存在する外部、を受け入れる能力」と定義していますね。」
郡司「それは『知能』というより、創造的な態度と言った方がよいかもしれません。一休さんが『退治するから、屏風の中の虎を出してくれ』と言ったように、『外部』があるなら見せてくれと言う人もいます。でも外部は見せてもらうものではなく、自ら感得するものなのです。そうやって、AI的なもので敷き詰められた世界の外部と出会うのです。」
宮崎「では、人間らしさとは。」
郡司「『人間にとって』とか、人間的であるとか、これは本当に人間と同じなのかとか、そういう観点でAIと対峙するとき、私たちは人間というものを一般化し、もっと言えば『わたし』すら一般化しようとします。AIが突きつけるのは、たぶん、その問題だと思っています。」
宮崎「著書に、AI時代の延長線上に「『あなたよりロボットの方がずっと優れた生き方ができる。もう死んでいいですよ』が待っている」とありました。絶望的な状況でしょうか。」
郡司「自分ができなくて他人ができることなんて、いくらでもあります。それで『私はもう生きている価値がない』と思う必要はない。人間には多様性があるのですから。でも、今どき語られる多様性なんて、もう一人ひとりを数え上げた瞬間に終わっちゃうわけですよ。そうじゃなくて、多様性というのは、次の瞬間に何かが発揮されるかもしれない、そういった目に見えない潜在性というものに賭けること。それが本質のはずです」
宮崎「潜在性とは、可能性のことですか?」
郡司「潜在性というものを、昔から哲学者はものすごく問題にしているけれど、それにアクセスする方法を具体的に展開する時代ではないか。私が言う『天然知能的な』っていうやつですけどね。今まではなかったが、いずれやって来るであろうものが出てくるというのは、せいぜい可能性であって、潜在性というのは、もう想定もできないような『外部』のもの」
宮崎「目には見えない「外部」。まるで霊の世界みたいです。」
郡司「ある文化人類学者は、海外の村の人たちと長く一緒に生活していたら、降霊の儀式で『霊が見えるようになった』そうです。科学は隙間無くすべてを分かろうとし、哲学は分からないものをうまく理論づけようとする。それができなければ『敗北』だと。自分の経験だけを世界だと見立てれば、その中で矛盾なく生きられ、整合する『真実』も計算できるでしょう」「でも、AIと違って、人間は身体がいずれ壊れて、やがて死ぬ。死という『わからないもの』、つまり、究極の外部を内に抱えているからこそ『生きている』と言えます。それが私たち人間の知性だということを、忘れてはいけません。」
 初め、聞き手は「AIをめぐる最近の状況を、どう見ていますか」と問う切り口で聞いていく。それに対して郡司は、所詮AIは人間が考えた道具に過ぎないから、人間以上でも人間以下でもないと答えているように私には見えた。それで、最初に「馬と車」を引き合いに出している。道路が舗装された現代では、圧倒的に車が便利だと見えるが、舗装がなされていない時代には、馬のほうが圧倒的に便利だった。つまり、状況に於いて便利と不便は変わってしまうのだ。自分がどの「状況」に置かれているかによって、便利と不便が変化するだけだという。便利と不便が「客観的に」先にあるのではなく、「状況」の変化によって見方が変わる。果たして自分はどの「状況」の中で考えているのか、それを自覚化せよという趣旨だろう。
 リンゴの例も面白い。まさに私がよく引用するまど・みちおさんの「リンゴ」を郡司が知っていて話題にしたかのようだ。リンゴという言葉を見れば、日本人なら誰しもリンゴを思い浮かべることができる。しかし、それは「抽象」であって、具体的な事物ではない。人間は「具体的」な事物の違いを捨象して、「抽象化」することで共通理解で成り立つ世界を作り上げた。そこに「外部」からの亀裂が生じることによって、詩人は創造的な世界を描き出す。人間が危ないのは、その「抽象化」だ。「抽象化」とは、価値化でもあり、本来比べることのできないものを比べようとする煩悩だ。
 最後に、郡司は、「AIと違って、人間は身体がいずれ壊れて、やがて死ぬ。死という『わからないもの』、つまり、究極の外部を内に抱えているからこそ『生きている』と言えます。」と言う。「死」は抽象的な概念だが、「私が死ぬ」ということになると抽象では済まなくなる。そこに初めて、「外部」が顔を表す。
 「外部」とは、哲学の伝統的な言葉で言えば、「形而上学的」ということだし、西洋一神教の文脈であれば、「神」だろうし、我々浄土教に置き換えれば「阿弥陀さん」だ。だから、「外部」と言っても特段、新しいことを述べているわけではない。
 しかし、「外部」を「外部」という言葉で表現してしまったなら、「外部」のはたらきを失ってしまう。「外部」も人間の知性では「外部という知識」に変容することができるからだ。郡司も「外部は見せてもらうものではなくて、自ら感得するものなのです」と言っている。蓮如が「往生は一人一人のしのぎなり。」というときの「しのぎ」が、それに当たるだろう。
 「外部」が、当たり前の日常への亀裂となるかどうか、それだけが緊急の課題なのだ。
※ペギオは、郡司がペンギン好きで、そこから付けたペンネームらしい。