「非僧非俗」は境界人

「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という本を目にしたときの小生の反応は、こうだ。この本を書いた著者は、どういう気持ちでこういう題名をつけたのだろうかと。著者は、本気で今日が人生最後の日だと思っているのだろうかと。もし、本当に、今日が人生最後だとしたら、そんな呑気なことを書いてはいられないのではかろうかと。だから、そんなテーマの本は買いたくないと思った。
 しかし、しばらく経って、このテーマを阿弥陀さん経由に頂き直したら、それも〈ほんとう〉のことなのだろうと思い直した。阿弥陀さん経由ということは、このテーマは阿弥陀さんが人間におっしゃる言葉であって、人間が人間に向かって語る言葉ではないという意味だ。人間は、どこまで行っても、今日が人生最後の日だとは思えない生き物だからだ。しかし、人間がどのように思おうとも、〈真実〉は「今日が人生最後の日」であることは間違いないことなのだ。ただその日が人生最後の日だとは、人間には知らされていないのだ。だから、「人生最後の日」は、必ず後から思い返せばという条件つきでやって来る。
 一寸先は闇というように、自分の人生は今日が最後なのだろう。自分には、それが知らされていないけれども。そう思うと、目にする光景が違って見えてくる。この光景が優しさを帯びてくるから不思議だ。この光景は御釈迦さんが見た、あるいは親鸞が見た光景と似たり寄ったりなのではないかとも思った。信仰は歴史的時間を一気に跳び超えるので、そういう感情もやってくる。この光景が永遠に続くのではないかという見方からは、優しさは訪れない。この光景が、自分が目にする、人生最後の光景でもあるかも知れないと思えるからこそ、優しさに包まれる。
 信仰は歴史的時間を一気に跳び超えると言ったが、それは「宇宙」が始まったときから、「宇宙」が消滅したときまでをトータルに包み込む視線だ。「聖書」でも、「はじめに神は天と地とを創造された。」とあるのだから、やはり、「宇宙」の始まりを意識しているに違いない。親鸞も、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」と述べているのだから、同じだろう。「宇宙」の最初と最後という時点から、〈いま〉というものを見つめている。この〈いま〉は決して流れない時間だ。この〈いま〉以外を人間は生きられない。これが「存在の零度」だ。
 ただ「存在の零度」なのだが、その中心を自分が占めることができない。中心はドーナツの穴のようなもので、言い当てることも、そこを生きることもできない。自分は常に、その穴の「周辺的存在」に過ぎない。これはマージナルマンではないか。マージナルマンとは、「文化の異なる複数の集団に属し、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団の境界にいる人。境界人。周辺人」とネットには載っていた。まあこれは社会学的用語なのだろう。しかし、この言葉を信仰用語として頂き直してみたらどうだろう。そうなると、「信心の行者」とは、まさに周辺人であり、境界人なのではないか。様々な人間関係を生きてはいるのだが、その関係に完全には所属していない。だから、それらの集団とは完全には混じり合わない。それでいて、どの集団にも属し、それなりの仕事はする。しかし、その生活の中心は空洞なのだ。生活の中心というよりも、そのひとのタマシイの在処が空洞なのだ。これが「零度の存在」ではないか。
 この空洞を「阿弥陀さん」と言ってみたり、〈真実〉と言ってみたり、いろいろと言い換えて楽しんでいる。自分の中心は空洞なのだから、あらゆるものが通過する。もしかしたら、親鸞の言う「非僧非俗」とは、この境界人のことではなかろうか。「僧という位相にもなく、俗という位相にもない」と。間違えていけないのは、「有僧有俗」や「半僧半俗」とは違うと言うことだ。これだと、僧のときもあるし、あるときは俗になっているときもあると、生活形態を表現した言葉になってしまう。親鸞の言うのは、その両方友を否定している。僧にも属さず、俗にも属さずだ。
 社会学的関心から読めば、「有僧有俗」と受け取られそうだ。しかし、信仰用語としての「非僧非俗」は、それらを完全に相対化する視点に成り立つ。僧と言っても、俗と言っても、それらは人間が命名した生活形態ではないか。自分は、そんなところには居ないぞと言っているのだ。つまり、人間界を完全に相対化した視点に居ると言うのだろう。まさに、「僧と俗」を超えた「存在の零度」に居るのだ。それを境界人とも周辺人とも言いうるのではないか。