「善人も悪人もすべて救われるんでしょう」という俗説

一昨日の六組聞法会では、「なぜ?からはじまる歎異抄」がテーマだったので、有名な第三条の「善人・悪人」についてお話しした。そして結論は、「悪人」とは、どこまでも阿弥陀さんが私を呼ばれる言葉であって、それを私のことだと受け取ったらダメだと言った。普通は、教えを聞いて、いままで善人だと思ってきたが、実は自分が悪人だったのだと自覚する言葉という意味で「悪人」を理解している。
 確かに、それで間違いはないのだが、そこをもっと突き詰めると、悪人だと教えられて、それが自分だと思ったら、阿弥陀さんと縁が切れてしまうのだ。一度、阿弥陀さんからの呼び声だと分かってしまえば、人間は「私のことですね。それはもう分かりましたよ」と受け取るからだ。それだと、「悪人よ」という呼び声が当たり前の出来事に変換されてしまう。そうすると、もはや「悪人よ」という呼び声に驚きも感じなくなるのだ。「はいはい、分かってますよ、私のことですから」と世俗化されてしまう。
 阿弥陀さんの見ている悪とは、「自力のこころ」のことなのだ。だから、自分が見ているままが、見えていないことの照明となるのだ。自分には一つも〈真実〉を見る力はないと教えられる快感だ。
 それから、懇親会になったとき、或る人が、「善人だろうが悪人だろうがみんな救われるでいいんじゃないですか」と言った。それを聞いていて、その発言は、親鸞聖人のご苦労を台無しにする発言だと思った。あの三条で問題にされている意味場は、「あなたは善人か、悪人かどっちなのだ」という突き詰めなのだ。それなのに、人間には善人もあるし悪人もあるし、いずれにしてもすべて救われるのでしょうという発言は、親鸞聖人のあなたへの親切を無にすることになる。
 親鸞は、「自力のひと」は救われないと言っているのだ。つまり、善人は救われないのだ。救われるのは「悪人」だけだ。
 善人も悪人もみんな救われるという発想は、総論では間違いではないが、各論では間違いなのだ。各論とは、自分が抜けているという意味だ。
 親鸞は「雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。」(『尊号真像銘文』)と厳しく言われている。
みんな誰でも救われるんでしょうという言い方は、第三者の意見であって、自分自身の救いとは無関係なひとも発言なのだ。
 そう言えば、『浄土宗大辞典』の「悪人正機」の項目で、「悪人こそが阿弥陀仏の本願の正機(=第一次的な救いの対象)である」との意。その場合、善人は必然的に傍機(=二次的な救いの対象)となるので、換言すれば、「善人も救いの対象とはなるが、阿弥陀仏の主たる救いの対象は悪人である」とする考え方といえる。」(以下略)という「世俗的解釈」と同じ目線である。
 この辞書の著者は、阿弥陀如来の救済は普遍的なものであって、善人だろうが悪人だろうが、すべてが救われなければならないと思っているのだろう。確かに阿弥陀さんはあらゆる苦悩の存在を救おうと誓われた仏さんだから、それは間違いのない考え方だ。しかし、そこまでであれば、本願・第十八願に、「唯除五逆 誹謗正法」という言葉がある意味がわからないだろう。法然が引用するときも、「唯除」の文は削除されている。この言葉が残ってしまえば、阿弥陀さんが矛盾したことを述べていると考えられてしまうからだ。普遍的な救いを表明しているのに、なぜその救いから除かれる存在があるのか。
 第三条は、この「唯除」の文を下敷きにした上で成り立っているのだ。お前は善人なのか、悪人なのかどっちだと迫ってくるのだ。そうやって問い詰められれば、自分は善人だ。善人とは「自力作善のひと」だ。つまり、阿弥陀さん不要論の考えだ。その阿弥陀さん不要論のものに、それこそが罪だと教えるのが、「汝悪人よ」という阿弥陀さんの呼び声なのだ。
 だから、善人とは「疑心の善人」のことであり、それに向かって、それこそが誹謗正法の罪だと教えるのである。
 その罪を自覚したとき、「恥ずべし、傷むべし」という懺悔が起こる。それは大いなる悲しみであると同時に、そのように阿弥陀さんが私に関わって下さったことへの感謝でもある。やはり、阿弥陀さんが超越の座を降りられる時があるのだ。
それは、私一人のためにである。
 親鸞が「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と吐露されたのは、阿弥陀さんが超越の座を降りられたときに出会った言葉であろう。それは「五劫思惟」だから、私が人間として生を受けるまでの、全生命の歴史を貫通して呼びかけられていたということへの、〈いま〉の気付きである。阿弥陀さんの救いは普遍を対象としているけれども、それと出遇うのは、我一人以外にない。
 しかし、この我一人は、孤絶の一人ではなく、全苦悩生命を代表した一人である。「蜘蛛の糸」を切られて、地獄へ舞い戻っていった犍陀多の降り立った大地の一人である。