阿弥陀さんの謝罪

親鸞は、「仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『教行信証』信巻p240)と述べている。「仏願の生起・本末」とは、阿弥陀さんが本願を発された理由という意味だ。なぜ阿弥陀さんが本願を発されたのか、その理由を分かりましたと受け取ることを「聞」と言うのだと、多生、無理な解釈をしている。そういう意味で言えば、「聞」ではなくて、「信」と言わなければならない。これは親鸞の誤記じゃないかと思うほどだ。
 しかし、後代のものは、これは誤記ではなく、ここに親鸞の深い思想があると受け止めてきた。だから、「聞即信」と言ってきた。しかし、それで分かったような気にもなるが、よくよく吟味してみると、なぜ「信」と言わずに「聞」と言ったのか。
 そう尋ねてみると、これは本願第18願成就文を解釈する箇所であることが分かる。つまり、「聞其名号信心歓喜」の「聞」を解釈するための場所なのだ。思えば、「聞」は、お経の初めにあった。「我聞如是」の「聞」である。この「聞」にも、様々な位相があるが、ここでは人間が耳で聞くという意味の「聞」である。「因果」で分ければ、「因位の聞」である。しかし、ここは成就文の「聞」であるから、「因位の聞」が成就した「聞」となったことを述べている箇所だ。つまり、「果位の聞」だ。言えば、「因位の聞」が「果位の聞」として成就することを「信」というのだ。その「信」を「因位と果位」に分けてみたとき、ここの箇所の「信」は「果位の聞」ということになる。それでここでは「信」と述べるところを、敢えて「聞」と表現したのだろう。
 聞くということは、理屈や理論を聞くのではなく、自己の存在根拠を聞くのである。つまり、自分がどこから始まったのか、その因を聞くのだ。人間は、有る意味で結果しか教えられていない生き物だ。なぜ、自分が、いま、ここにこのような存在としてあるのかと問うている態度は、存在の結果があったうえで、因を問うという問い方になっている。この存在の背景をどう受け取るかというのが〈真・宗〉だ。
 そのことをイエスと受け取るか、それともノート拒否するか。昨日の六組の聞法会でも、それに関して「未生怨」ということを述べた。これは涅槃経の阿闍世のことだが、彼が父殺しをする、一番の根っこにある問題が「未生怨」だ。表に現れてきた現象は、父母への怨みである。しかし、その根本を問うていくと、自己存在への鬱々とした感情であり、それが元になって怨みが爆発する。当初、阿闍世が鬱々としていた感情を示していたと涅槃経は述べている。その鬱々とした感情とは、生老病死という人間の限界状況に対する怨みの現れである。なぜ自分が死すべく、いまここに生きていなくてはならないのか。それを納得できないという感情だ。
 曇鸞は、五逆という法律上の罪以上に、誹謗正法の罪が重たいといっている。阿闍世に父殺しという罪を引き起こした、その原因は誹謗正法の罪なのだというのだ。誹謗正法の罪とは、簡単に言えば、「神も仏もあるものか、頼りにできるのは自分しかいない」という思いのことだ。その考えのほうが、殺人罪よりも重いというのだから、常識では納得できない。曇鸞も、それは「個人的なことじゃないか」と自問自答している。ところが、その五逆という罪が引き起こされるためには、必ず誹謗正法があるという。それは未生怨のことだ。
 根本的に、自分がいまここにあることへの怨みが根っこにあって、五逆が引き起こされる。だから、五逆を生み出さないためには、未生怨が解消していなければならないと。
 未生怨が解消するためには、「秘技」があるのだ。それは涅槃経でも記されているが、阿闍世が父殺しをした要因に私の罪があるのだと御釈迦さん自身が謝罪しているのだ。涅槃経では、そうだが、親鸞はそれを「阿弥陀さん」と読み換えているに違いないと思う。御釈迦さんはスーパーマンだから、人間と比べるなと言われそうだが、人間が人間の謝罪を受ける程度では未生怨が解消できない。そこには存在の根元としての阿弥陀さんの謝罪ということが不可欠だ。
 阿弥陀さんは、あらゆる存在から苦悩を取り除けなければ私は仏ではないと宣言している。それなのに、我々は日々多くの苦しみに遭遇する。その苦しみを突き詰めれば、それは生老病死だ。この四苦の苦しみを取り除けなければ、阿弥陀さんは仏には成れない。
 そこに阿弥陀さんの謝罪がある。四苦の苦しみを取り除くことが出来ないで、あなたに苦悩を背負わせて申し訳ないという謝罪である。それも、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」だから、私が私になってくるまでのいのちの全歴史を通じて、謝罪されているのだ。この謝罪を受けた時、いま・ここ・私を受け入れられないままに、受け入れるという世界が与えられる。苦悩を感じるときには、いつでも阿弥陀さんの謝罪が、そこにある。その謝罪を浴びながら、いま・ここ・私へ帰っていくしかない。我々の「思い」はつねに「いま・ここ・私」から逃げていこうとする。人間は「対象化」という智慧があるから、するっと逃げるのだ。それでもよいのだ。たとえ逃げようとも、阿弥陀さんはそのまま放ってはおかないから。摂取不捨とは、そのことだ。