そこには、あなたが見ている私がいるだけ。私という実体はどこにもない。これは不思議だ。自分には、「自分」が見えない。鏡に映っている自分は見えても、自分のこころは見えない。
私のことを、「あなたはお坊さんなんですよね?」と訊かれる方がいるので、「皆さんからは、そう呼ばれています」と応えている。「住職なんでしょ?」と重ねて訊かれるので、「周りのひとからは、そう呼ばれています」と応える。もっと突き詰めれば、「あなたは、武田定光さんでしょう」と訊かれれば、「世間では、そう呼ばれています」と応えることにしている。
果たして、その実体は分からないからだ。自分が「自分」をどのように命名したらよいのか。その実体を知っているのであれば、「私は武田定光です」と応えられるのだが、その実体を知らないので、何とも応えようがない。そんなバカな話はあるかと、言われそうだ。
自分は「自分」を知っているから、ちゃんと日常生活を送れているのではないかと批判されそうだ。それはそうなのだ。誕生したてのころは、自分などという意識もない。だから、最初は肉の塊に過ぎない。その肉の塊を、他者が、つまりは親だが、彼等が私を「武田定光」と呼ぶことによって、「ああ、自分は武田定光という名前なのか」と学習したのだ。やがて、「自分は武田定光です」と他者に向かって表明できるようになる。そうすると自分の名前というものも、他者(親など)が自分に貼り付けたレッテルに過ぎない。おかしなことに、自分の名前なのに、自分で自分自身に命名したひとはいないのだ。自分の名前くらい自分で名のればよいのに、必ず他者から命名されたレッテルを自分の名前にしている。これもお仕着せのようなものだろう。本来はオーダーメイドであってよいはずだ。
親鸞は、その肉の塊を「親鸞」と名づけた。幼い頃は、「松若丸」で、九歳で出家するときには、「範宴」と呼ばれていたらしい。大人になって、三十五歳頃に、そのお仕着せの名前を脱ぎ捨てて、みずから「親鸞」と名のった。それは、「天親菩薩」と「曇鸞大士」から一字ずついただいたものだ。別に「天曇」でも「親曇」でも「天鸞」でもよかったのだろう。しかし、そこには親鸞の言葉に対する美感が表れている。発音したときの美しさを彼は考えたに違いない。音的には、シンランが美しいし、一番かっこいいと思う。万が一、「天曇」だとしたら、我々は「天丼」を連想してしまう。
親鸞と自称する前は、「善信」と名のっていたらしいのだが、それは師・法然から付けてもらった房号だ。これは、「善導大師」と「源信僧都」から一字づつ採られた名前である。『歎異抄』でも、「善信房」と呼ばれているので、これは法然の命名だろう。師・法然も、「法然房源空」が正式な名前で、「法然房」が房号、「源空」が法名ということになる。房号とは、通り名とか、あだ名、諱のような扱いである。つまり、普段使いの名前であって、ひとからもそう呼ばれ、自分を自称するときにも、それを使っていたことだろう。これは、本人の正式名称を他人が呼ぶときには、そのひとを手づかみにするようなもので、失礼に当たるので、通称を使う習慣から来る。
これは現代人の我々にも共通している。我が家でも、親戚の叔父伯母を名前で呼ばずに、その夫婦が住んでいる地名で呼んでいた。たとえば、「板橋のおじさん」とか、「稲毛のおばさん」とか。その地名を呼ぶことで、そのひとを連想させるのだ。これは平安貴族が、「諱」を使った習慣だが、現代人にも通底する人間そのものの習性なのだろう。本名を呼ぶことを避ける。本名は、そのひとそのものを手づかみにするから憚られるのだ。
それで、法然の道場に入っていた頃の、親鸞の法名は何かと言えば、それは「綽空」である。これは、「道綽禅師」と「源空」から一字ずつを採用した。「善信房綽空」が親鸞の正式名称ということになる。それでも旧仏教の怒りを宥めるために法然が考案した「七箇条起請文」には、一九〇名の弟子達が署名していて、親鸞は「僧綽空」と自署しているので、これをどう考えるかとことも問題である。まあ、それはそれとして、この名前を三十三歳のとき、法然に返上し、新たに「親鸞」と改名を許されている。
「善信」は、「善導・源信」だし、「綽空」は、「道綽・源空」の合成なので、この命名の系譜は『観無量寿経』(以下、『観経』と記す)だと言われている。『観経』の思想的系譜に、自分の発想の基軸を置くという意味だ。親鸞の分類によれば、これは「第十九願」の世界である。しかし、親鸞は、その系譜から、『仏説無量寿経』(以下、『大経』と記す)の系譜に発想の基軸をチェンジした。それが「天親・曇鸞」からいただいた「親鸞」という改名だ。「天親」は、『無量寿経優婆提舎願生偈』を著し、「曇鸞」は、その書の注釈書である『無量寿経優婆提舎願生偈註』を著している。これらから思想的恩恵を受けた親鸞は、『大経』を発想の基軸にされたことが分かる。それで「親鸞」と名のられている。
これは注目すべきことだが、「正信偈」で「七高僧」を列記される中で、「本師」と呼ばれているのは、「曇鸞」と「法然」、二人のみである。それで私は「法然」は「生みの親」、「曇鸞」は「育ての親」と呼んでいる。「法然」と出会うことがなければ、親鸞は誕生していない。しかし、「曇鸞」がいなければ、「善信」のままであり、「親鸞」にはなっていなかったに違いない。まあ、象徴的に言えば、親鸞は「法然」から、「廃立」を学び、「天親・曇鸞」からは、「隠顕」を学んだと思われる。「法然」は、その主著である『選択本願念仏集』の名の通り、「選択」を学んだ。これは、信仰的決断とも言うべき「あれかこれか」という選択的発想である。「隠顕」とは、「選択」で基軸をチェンジした後に開かれる「あれもこれも」という包摂的発想である。「選択」なき「隠顕」は曖昧信仰であり、「隠顕」なき「選択」は排外主義的信仰になる。だから、「選択」をくぐった「隠顕」でなけらばならない。これは人類に「平和」をもたらす信仰の基本形だと思う。
話が、自分の言おうとしていることとは違う方向に行ってしまった。これは「書く」という行為の持っている必然性だ。書き始めたときには、書くための思いに沿って文字が創造されてくるのだが、書いていてるうちに、「書かれた言葉」が書くことの主体になってしまい、自分はその後を着いていくことになる。犬を散歩に連れ出したはずなのに、いつの間にか、犬に引っ張られてしまい、元の家に帰れなくなるとでも言える現象だ。
それで元の家に帰ろうと思う。親鸞は自分自身を「親鸞」と名のったのだが、果たして親鸞は自分自身の当体を完全に知っていたのだろうか。おそらく、丸ごとの自分自身については知らなかったのだと思う。知らなかったから、いろいろな名前で呼ばれていても、それに違和感を感じなかったのだろう。しかし、やがてそれに違和感を感じ、その当体を自分で命名したくなったのだろう。それが「親鸞」という名だった。「天親・曇鸞」の系譜に生きることの宣言だ。決してそれは「善導・源信・法然」の系譜を排除したわけではない。それらを止揚したのだ。それが「七高僧」という視座を創造したことの証明である。いわば「親鸞」は「七高僧」を統合する視座を得たのだ。もっと言えば、「七高僧」とは「親鸞の頭の中」にしか存在しない意味世界ということだ。
親鸞は、自分の当体を「親鸞」と命名したのだが、それで完結したわけではないだろう。それは何も、「親鸞」に違和感を感じて違う名前に改名したかったという意味ではない。どれほど自分の当体を命名しても、決してまるごとの自分を命名することはできないという安心感だ。自分で自分自身を丸ごと知ることができるのは阿弥陀さんだけだ。凡夫という存在は、自分で自分とは何ものなのかを知らない生き物だ。だから親鸞も、「取り敢えず」、「親鸞」と命名したのだろう。自分の本当の姿をご存じなのは阿弥陀さんだけだと気付いたからだ。
自分とは、自分以外の周りを見ることができても、自分自身を見ることはできない。そういう生き物だとつくづく教えられる。自分が世界を命名し尽くしても、命名している当体は空洞だ。自分と世界とは、そういう関係だったのか。自分も、自分自身が分からなくて幸せだ。本当の自分をご存じなのは、阿弥陀さんだけなのだから。