〈一人一世界〉

友人(宇佐美友見)からいただいた歌集『海、はじまる』(市井社)に、こんな歌が載っている。
私とあなたの
見ている世界
微妙に違う
きっと 並んだ時の
隙間の分だ
私の見ている世界と、あなたの見ている世界は「微妙に違う」。それがどれほど親しい関係にあってもだ。それが夫婦であっても、恋人同士であってもだ。確かにダブルベッドで寝ているときの身体の距離は近い。ただ、どれほど身体が密着していても、こころは決して密着していない。「微妙に違う」のだけれども、それは「決定的に違う」のだ。違いが、たとえ一ミリであっても、違っていることには違いがない。
 それもそのはずだ。私たちは〈一人一世界〉をしか生きていないからだ。ここに十人のひとがいれば、十の世界がある。百人いれば、百の世界がある。世界はそのひとの数だけ存在する。ただそれは透明で、何重にも重なっているだけなのだ。だから、他者の〈一人一世界〉を自分は見ることができない。それは透明だから。
 この〈一人一世界〉が、人間が生きている、そして生きることのできる唯一無二の固有の世界である。だから、決して他者には理解することができないし、奪い去ることもできない。違っているのが、当たり前、つまり「本来性」なのだ。また違っていなければならないのだ。これは誰も侵すことのできない、固有の「領土」でもある。
 もし、「話し合えば分かり合える」などと思っていると、「分かり合える」という幻想に圧迫されてしまう。日常では、話せば分かるのだからと、お互いに言葉を交わす。まあ言葉で分かり合えるように感じるときもある。それは表層のことだけだ。しかし、「微妙に違う」ことに気付いてしまうと、言葉に言葉を被せるようにして言葉がインフレーションを起こし、「これほど語り合っているのになぜ分かり合えないのか」と、怒りさえ起こってくる。だから他者とは、決して分かり合えないということを前提として関係しなければならない。この前提が崩れてしまうと、人間に妙な重荷が背負わされる。「人間とは浅く付き合うものだ」という教訓は、このことをよく表している。これは他者と真剣に付き合うなという意味ではない。決して、「分かり合えない」という絶対条件を知った上で、真剣に付き合えと言っているのだ。
 イエスは、「汝の隣人を愛せよ」と言った。これも人間にかなりの圧迫感を与えた。五行歌はこう述べている。
なあんだ 結局
自分しか
愛せないんだ
自己完結の孤独と安心
いちどきに
 イエスに、そう言われても、やはり、自分は自分自身が一番可愛いのだと気付いてしまった。そこに「孤独と安心」がやってきた。〈一人一世界〉は絶対の孤独である。と同時に、「安心」でもある。なぜ「安心」なのかと言えば、それは人間の「本来性」だからだ。誰しも皆、そのようにしか生きていないと見えてしまったからだ。たとえイエスであってもだ。それは、「絶望」と「希望」を超越した「安心」だ。
 そのとき、そのひとに、「世界」はどう見えているのか。「世界」は、一つに見てしまっているのか。それとも、80億にひとには、80億の世界があると見えているのか。その見え方で、「世界」はまったく違ってしまう。
 もし「世界」が、たったひとつであって、そのなかに80億人が暮らしていると考えれば、「孤独」にならざるを得ない。他者とは、分かり合えない絶界の孤独になる。しかし、80億人には80憶の世界があると見えれば、孤独を前提にした上で関係を結ぶことができる。そもそも、その他者とは、私に取って、〈一人一世界〉の内部の住人であり、この〈一人一世界〉を構成し、成り立たせている構成要素である。〈一人一世界〉と言っても、自分一人で作り上げているわけではない。〈一人一世界〉は重層的であって、各々が各々の世界の構成要素として共に支え合っている。他者は私の〈一人一世界〉を成り立たせる重要な素材である。これは人間ばかりではない。目にすることのできる事物は、すべて〈一人一世界〉の構成要素である。だから、一つでも欠けてしまえば、〈一人一世界〉は成り立たない。ここは「縁起の世界」である。この世は「相依相対」で出来上がっている関係性の世界だ。この世界の淵源を尋ねて行けば、やはり、この世にいのちを生み出し、事物を生み出した阿弥陀さんにまでたどり着く。西洋一神教のように、「原初」を絶対者が「創った」とは考えない。人間には分からないけれども、仮に「原初」があるとするならば、「阿弥陀」と名づけてみようという程度の観念である。親鸞も、
十方微塵世界の 
念仏の衆生をみそなわし 
摂取してすてざれば 
阿弥陀となづけたてまつる(「浄土和讃」)と言っている。
 阿弥陀は、あくまでも人間が「なづけたてまつる」ものである。だから別に何と名づけようと、それは人間にまかされている。所詮、何と名づけようと、それは「人間界」のことであって、阿弥陀さんそのものには指一本も触れてはいないから安心だ。どこかで、「阿弥陀さん」を知っていて、それに「阿弥陀」と命名しているのではない。決して人間の知の内部に取り込むことのできないはたらきを、「阿弥陀」と命名しているに過ぎない。だから、どこまでも「阿弥陀」という名前は、人間にとっての「メタファー」に過ぎない。「メタファー」とは、決して、人間の知の内部のことに還元できないという意味だ。
 人間が対象に命名するのであれば、「なづくべし」とか「なづくるなり」でよかったのだ。しかし、そうは語っていない。「なづけたてまつる」と敬語表現で語っている。まあ、ここがグッと来るところだ。つまり、本来名づけることのできないものを、人間の事情によって、仮に名づけさせていただいているのだと謙っている。阿弥陀さんには大変申し訳ないことをしているという謝罪も感じる。阿弥陀さんには、本当の名前があるのかも知れない。人間には知らされていないけれども、正しいお名前があるのだろう。でも、人間にはそのお名前を知るだけの知力もない。知りもしないのに、人間の都合で、人間が呼びやすいように勝手にレッテルを貼ってごめんなさいと跪いている。どこまで行っても、人間の勝手な事情によって命名させていただいているのだ。
 なぜならば、それは人間が、「人間界」を脱出するために必要だからだ。「人間界」は、「世界が一つだ」と決めつけている。一つだから領土争いが起こる。一つだと決めつけるのは、人間が楽をしたいからではないか。何でも、「一つ」と決めれば、人間は考えなくてよいので楽だ。戦時中は、「愛国」とか、「報国」という一つの観念があれば、ほかのことを考えなくてよかった。「財産」とか、「名誉」とか、「地位」とか、「正義」とか、「平和」とか、「名声」とか、「社会性」とか、「快楽」とか、「グルメ」とか、そういう価値に「観念」を一元化すれば、他に考えることもなくなるので楽になる。そのこと一つを追求すればよいのだから。
 しかし、この世には80億人が暮らしているので、価値観も、結構バラバラである。この価値観を統一できれば、社会体制を作ろうとするひとたちは、楽になる。現代、中国は、「権威主義的資本主義」と呼ばれている。資本主義は、自由経済が基本だが、それを為政者の権威によってコントロールする体制が中国だ。中国は、世界の工場と呼ばれるほどに、物作りが盛んだ。中国製品や安価なのは、安価な労働力があるからだ。それは中国国内に安価な労働力を提供する人間達のいることを証明している。それが都市部に住む、一部の人々の富を生み出しているとも言われている。あるひとは、この状態を、中国は国内に植民地を作っているからだと評した。植民地と言えば、自国から離れた場所にあるというのが常識だ。自国から離れているので、人目に付きやすい。しかし、それが国内にあるとなると、周りの国からは目立ちにくい。
 だから、「人間界」は、「世界は一つだ」という観念を譲り渡したくはないのだろう。むしろ、80億人に80億の世界があるなどとは、決して認めたくないのだろう。「人間界」は、吉本隆明さんの言葉で言えば、「共同幻想」で作られている。でも、それは「ハダカの王様」だ。「みんな」が、そのように見えているという、「みんなの目」を旦保にした「幻想」だ。そんな「みんな」などどこにもいないのだ。そもそも「死」も「生」も、「みんな」には訪れないのだから。それは必ず〈一人一世界〉にあることなのだから。