たかが物語、されど物語

 こころに「外部」を持つ。なぜ、目覚めが阿弥陀さんの証明なのだろうかと、再度、そのことを問うものがあった。目覚めは目覚めであって、それをなぜ阿弥陀さんのはたらきだと解釈するのだろうか。それは「解釈」であり、「意味づけ」であって、事実の曲解ではないのか。そう問われると、困ってしまう。
 そのことを考えるための、一つのヒントは、河合隼雄先生の言葉である。
「神話学者のケレニーが「神話は物事を説明するためにあるのではない。物事を基礎づけるためにあるのだ」という言い方をしています。普通考えると、神話によって、いろんな現象を説明したと思われるのですが、そうじゃなくて、基礎づけるのだ。どういうことかというと、「私という存在がここにいる」「どうしているんですか」というと、「いや、今日は講演ですからここにいます」(笑)というのは説明ですね。そんなのじゃなくて、私がここにいるということが絶対的な重みを持って自分自身に「うん、私はここにいるんだ」と腹の底まで思えるというのが神話だというんです。だから、人間がいまこの世に生きていて、そして太陽があり月がある。それは神様がつくり給うたのだということで、ハッキリと「うん、おうだ」と思える。そういう場合はそれは神話として機能しているわけですね。われわれがそれを信じなくなったらもう全く意味をなさないんですが、逆にいいますと、人間がいろいろやっていることを神話の中に位置づけると、「うん、そうだったのか」ということになるわけです。」(『物語と人間の科学』岩波書店1993年)
 まあ「神話」というものをどう考えるかということが一番問題なのだが、それは置いておくことにして、「説明」と「基礎づけ」という言葉で、それを分析していることが私の言わんとするところのヒントになる。直観的な言い方だが、「説明」は意識の表層、「基礎づけ」とは深層までを包んだ概念だろう。だから、自分がいまここにいることを表層の意識で説明すれば、「講演という仕事だから」と、他者に向かって説明できる。それは他者に向かって「説明」するための、一応の理由だ。また自分自身に向かっても、そのように「説明」できる。しかし、もっと深層のこと、つまり、なぜ、私は、いまここに存在するのかという根っこまでを貫いて、「うん、私はここにいるんだ」と思えるのが「神話」なのだと河合先生はおっしゃる。深層のことを考えると、一気に、自己存在の根っこへ意識が深まる。まあこれが「実存感覚」というものだろう。地球上の、どこにいてもよいのだが、それがなぜ「いま・ここ・私」として限定されているのか。
 この深さまで意識が降りていくと、どうしても「物語(ナラティブ)」が必要になる。それが「いま・ここ・私」を「基礎づける」ためには必要なのだ。人類にとって、自己を「基礎づけ」しようと思うなら、必ず「物語(ナラティブ)」がなければならない。現代人も、「物語(ナラティブ)」は持っているように見える。それは私の言う「絶望道」という「物語」だ。人生は生きているときだけのことであり、死ねば死にきりという「物語」だ。まあ、これは絶望的であり、絶望的だから、虚無的、頽廃的なイメージへと導かれる。「物語」には、必ず終わりが記されていなければならない。これは人間が捏造するというよりも、「物語」というもの自身が要求することだろう。その終わりがハッピーエンドで終われれば言うことはないのだが、果たして、そうなるかどうかも分からない。
 どんな「物語」にも、終わりがある。だから、西洋一神教にも「終末論」というものがある。これは時間を直線的にイメージするところから描かれている。直線的とは、人生を一回限りの出来事と考えるという意味だ。それに比べて、ヒンドゥー教や古代ギリシャの時間論は、円環的だ。「六道輪廻」という発想は「円環的」だ。この「円環」の環から脱出するという問題提起を打ち出したのが、釈迦である。釈迦は、その意味で、西洋一神教と同じモチベーションで「時間」を考えている。どれだけ迷いの生を繰り返してきたか分からない。しかし、仏教によって迷いの「円環」から、いま脱出すると考えた。
 なぜ、「いま・ここ・私」なのかの答えを得ようとするとき、それは「説明」では決して落ち着かない。「いま・ここ・私」の全体を貫いて、存在を根底から納得したいという欲求を人類は持っているからだ。「なぜ、あなたではなく、私なのか」、「なぜ、いつかではなく、いまなのか」、「なぜ、どこかではなく、ここなのか」。この問いは、つねに自己に取り憑いて離れることがない。これを納得するためには「物語」が要求されてくるのだが、それが「説明」ではなく、「基礎づけ」へと落ち着くためには、何が必要なのか。
 そのためには、いままで持っていた「固定観念」の解体が必然する。これも河合隼雄先生の言葉がヒントになる。
「意識の表層のところでは時間が直線的で、一時間、二時間、一日、二日とものすごくはっきり決まっている。意識が深くなるとそれが曖昧になってくる。(略)意識が深くなるほど時間体系が崩れてくる。(略)われわれ人間は、ふつうの生活をしているときは、ふつうの約束どおりの意識で生きている。しかし、現実というのは案外おもしろくて、深い層では時間体系も違うと考えるといいように思います。(略)あるいは自分自身が思いがけない病気になることがある。急に会社がつぶれることがある。われわれの世界が急にコロッと変わる。自分が支えられていたものを急に失っていく。そのとき、私は本当は何に支えられているかということが問題になる。そういうとき、自分の支えをこの世の支えを超えて、超越的な、絶対的なものとの関連において考えることが宗教的なことだと思います。」(同書)
 「われわれの世界が急にコロッと変わる」ということが、時間意識の変革、つまり、「固定観念」の解体になるということだろう。仏教が問題にしてきた「四苦八苦」とは、まさにそのための契機である。表層の意識は、デジタルに、何でも固定化し、決めたがる。これはロゴス的要求だ。ロゴスとは、「言葉。論理。意味」などと訳されるが、それの語源には、整然と並んでいること、きちっと決まっていることという意味があるらしい。それで、カタロゴスが「カタログ」になり、「ロジック」という派生語も生んだ。時間も、整然と並び、順序立てていて、決して後戻りはしない。
 しかし、これは意識の表層でのみ成り立つことだ。でも、表層の意識はどこかで知っているのではないか。これが「虚構」であることを。そこで、「私は本当は何に支えられているか」ということが暴かれてしまう。
 私は、布団の中で目が覚めたという、実に取るに足らない、些細な日常の一コマに、「固定観念」の解体を見た。目が覚めたことを、どのように解釈するのかと、「目覚め」ということから、逆に問われた。そこに「自分」という意志がどこにも介在していないことを確認させられた。この気付きが、一気に、自分がこの世に誕生したときまでに遡った。そこにも意志が介在していない。この意志が介在していない歴史を遡り、この世にいのちが誕生した原初にまでたどり着く。
 そこで、初めて「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(浄土和讃)という親鸞の言葉が、復活してくる。「十劫」とは、まさしく「物語的時間」を表している。いかにも、我々は「物理的な」、そして「無機質な」、そこには人間の思いなどがまったく介在しない「客観的出来事」があるかの如くに暮らしている。しかし、その「客観的出来事」の皮を剥いでみれば、その足下には、「物語的時間」が横たわっている。なぜ自分は自分として、いま・ここに生きているのか、その「なぜ」が「物語的時間」を開いてしまう。この世に誕生してから、私は「私の人生」という物語を生きてきたのだ。果たして、この物語の結末はどこにあるのか。それに思いを馳せるとき、「弥陀成仏のこのかたは」という和讃が、そこはかとなく意識に浮上してくる。
 我々の物語の結末を「弥陀成仏」と親鸞は見抜いたのだろう。「弥陀成仏」とは、我々から、あらゆる苦悩がなくなった状態だ。阿弥陀さんは、あらゆる存在から苦悩が取り去られて救われなければ、私は仏には成らないと誓った仏だ。その本願が成就して、あらゆる存在が救われたのだ。それが「弥陀成仏」の〈いま〉である。しかし、現実に、我々から苦悩が取り除かれてはいない。つまり、「弥陀成仏」の状態にななっていない。こう考えてみると、我々は「弥陀成仏」の嘘を告発しなければならない。阿弥陀さんはすべての存在を救って仏に成ったとおっしゃるけれども、救われていない私がここに居ると、異議申し立てをしなければならない。この異議申し立てを聞いた阿弥陀さんは、自分の間違いを詫びる。自分の救済力が弱いために、お前に苦労をかけて申し訳ないと。この阿弥陀さんから私への謝罪を聞いたとき、私の内部では、むしろ阿弥陀さんにこれほどまでにご苦労を掛けて申し訳ないと思う。この阿弥陀さんからの謝罪への返礼が、南無阿弥陀仏と口を突いて出ることもある。これが親鸞の「称名念仏」である。
 この阿弥陀さんからの謝罪を受けた時、この「十劫」という時間そのものが、謝罪の時間へと転換される。「十劫」ものあいだ、私は阿弥陀さんの謝罪を受け続けてきたのだ。だから、「十劫」の昔に私は救われていたのだ。この「十劫」が一気に、〈いま〉の内容として復活してくる。阿弥陀さんの謝罪、それに応ずる私の返礼。この往復運動が無限に展開していく。
 もう救われていたのだから、〈いま〉という未救済の状態を生きることができる。救われてもいないのに、〈いま〉という未救済の状態を生きることはできない。「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなうれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり」(「浄土和讃」)である。「三世の重障」とは、「十劫」の昔から阿弥陀さんの謝罪を受けてきた時間のことだ。これが「かならず転じて軽微なり」と言われる。皆無になるわけではない。軽微なものに転換されるという。たとえ救われていようと、苦悩の娑婆なのだから、苦悩は必ず付いて回る。しかし、その苦悩が軽微なものに変わるのは、そこに阿弥陀さんの謝罪があるからなのだ。この娑婆に私を誕生させたのも阿弥陀さんなら、すべては阿弥陀さんに責任を取ってもらわなければならない。
 その責任を丸ごと引き受けて下さっているから、私の〈いま〉が、ここにあるのだ。布団の中で目が覚めるという奇跡も、阿弥陀さん抜きには成り立っていなかったのだ。